断章311

 二兎を追う者は一兎をも得ず(にとをおうものはいっとをもえず)。

 欲を出して同時に二つのことをうまくやろうとすると、結局はどちらも失敗することのたとえ。「中国の故事か何かに由来していそうだが、実は古代ギリシア起源で欧州に広く分布することわざという。日本には明治に入ってきて、修身の教科書で広まったらしい」(2019/12/13 毎日新聞)。

 

 諸外国に比べ、国民が、手洗い・マスク・うがい・外出自粛を徹底することで、欧米ほどにはコロナ感染爆発がなかった。すると、危機管理が下手くそ(つねに後手後手のうえに朝令暮改を繰り返す)なくせになぜか自信過剰 ―― 既得権益層を代表する政治エリートはいつの時代どこの国でもおおむねすべてそうだが  ―― な菅政権は、二兎を追おうとした。コロナ防疫と「専門家による『Go To』事業停止の訴えを無視して、昨年の12月初旬には、『Go Toトラベル』の2021年6月までの延長の決定」である。

 しかし、「中世ヨーロッパで大流行したペストにしても、第1次大戦中に世界中に拡大したスペイン風邪にしても、過去の歴史が教訓として示しているのは、人々の移動の増加が感染症拡大の主たる原因になっているということです。菅首相は今でも『Go Toトラベルが感染拡大の原因であるとのエビデンスは存在しない』との立場を堅持していますが、歴史の教訓はエビデンスと同等の価値を持っているはずです。(中略)

 結局のところ、コロナ対策の大失敗が経済をいっそうダメにしてしまった」(中原 圭介)。

 税金を投入して「感染拡大」をし、その「後始末」にまた税金を投入することになった。

 

 「イスラエルはコロナを国家的危機ととらえ、感染症危機管理に奔走してきた」。そして、「世界最速で新型コロナウイルスのワクチン接種を進めたイスラエルは、成人のワクチン接種をほぼ完了し『移動の自由』を取り戻しつつある。それでもイスラエルはコロナへの警戒を緩めていない。2回接種完了した国民に必要であれば3回目も接種できるよう、世界でいち早く2022年のワクチン供給につきファイザー社と契約締結した。(中略)

 ワクチン開発のためには産官学の垣根、そして国境も超えた連携が必須であることがコロナでは明らかになった。しかし日本に遺伝子ワクチンのようなバイオイノベーションを生み育てる力は不十分だった。新型コロナ対応・民間臨時調査会(コロナ民間臨調)報告書は、規制官庁としての厚労省にワクチンを戦略物資として育てる産業戦略が欠けていたこと(引用者注:そして日本のこれまでの政治家たちに国民を守るための危機意識と戦略が無かったこと)、結果としてコロナワクチンへの対応が『3周半遅れ』(政府関係者)になってしまったと指摘した」(2021/05/10 東洋経済API)。

 

 大地震など、「災厄のほとんどは誰のせいでもなく起こるものである。故に、誰かを責めてみたところで詮(せん)無いことである。しかし、その前後は違う。事が起こる前の準備、事が起こった後の始末、全て誰かの責任である。誰かとは即ち、これらの準備や始末をするために国民から選ばれた人たちのことである」(MAG2NEWS・山本 勝義)。

 エリートの誤った判断のせいで、国民の生存と生活が脅かされてはならない。

 

【参考】

 「新型コロナウイルスのワクチン開発で日本は米英中露ばかりか、ベトナムやインドにさえ後れを取っている。菅義偉首相が4月、米製薬大手ファイザーのトップに直々に掛け合って必要なワクチンを確保したほどだ。“ワクチン敗戦”の舞台裏をさぐると、副作用問題をめぐる国民の不信をぬぐえず、官の不作為に閉ざされた空白の30年が浮かび上がる。

 世界がワクチンの奪い合いの様相を強める中で、国産ワクチンはひとつも承認されていない。ところが、厚生労働省で医薬品業務にかかわる担当者は『米国や欧州ほどの感染爆発は起きていない。何がいけないのか』と開き直る。『海外である程度使われてから日本に導入したほうが安全性と有効性を見極められる』」とまで言う。

 1980年代まで日本のワクチン技術は高く、米国などに技術供与していた。新しいワクチンや技術の開発がほぼ途絶えるまでに衰退したのは、予防接種の副作用訴訟で92年、東京高裁が国に賠償を命じる判決を出してからだ。このとき『被害者救済に広く道を開いた画期的な判決』との世論が広がり、国は上告を断念した。1994年に予防接種法が改正されて予防接種は『努力義務』となり、副作用を恐れる保護者の判断などで接種率はみるみる下がっていった。

 さらに薬害エイズ事件が影を落とす。ワクチンと同じ『生物製剤』である血液製剤をめぐり事件当時の厚生省生物製剤課長が1996年に逮捕され、業務上過失致死罪で有罪判決を受けた。責任追及は当然だったが、同省内部では『何かあったら我々が詰め腹を切らされ、政治家は責任を取らない』(元職員)と不作為の口実にされた。

 いまや欧米で開発されたワクチンを数年から10年以上も遅れて国内承認する『ワクチン・ギャップ』が常態となった。国内で高齢者への接種が始まったファイザーのワクチンは厚労相が『特例承認』したものだが、これは海外ワクチンにだけ適用される手続きだ。

 日本ワクチンが歩みを止めている間、米国は2001年の炭疽菌事件を契機に公衆衛生危機への対応を進化させている。有事には保健福祉省(HHS)が中核となって関係省庁が一枚岩となり、製薬会社や研究機関と連携。ワクチン開発資金の支援や臨床試験(治験)、緊急使用許可といった政策の歯車が勢いよく回る。

 世界のワクチン市場の成長率は年7%近い。致死率の高い中東呼吸器症候群(MERS)、エボラ出血熱などに襲われるたびに新しいワクチンが編み出された。新型コロナで脚光を浴びた『メッセンジャーRNA(mRNA)』の遺伝子技術もワクチンへの応用研究は20年越しで進められていた。

 ワクチンは感染が広がらなければ需要がなく、民間企業だけでは手がけにくい。しかし日本では開発支援や買い取り、備蓄の機運は乏しい。北里大学の中山哲夫特任教授は『ワクチン・ギャップが生じるのはポリシー・ギャップがあるからだ』と政策の停滞を嘆く。(中略)

 研究者と技術は海外に流出している。あるウイルス学者は『日本は規制が多い一方、支援体制が貧弱だ』と指摘する。危険なウイルスを扱える実験施設は国内に2カ所しかなく、ひとつは周辺住民の反対で最近まで稼働しなかった。厚労省農水省文科省をまたぐ規制は複雑で、遺伝子組み換え実験は生態系への影響を防ぐ『カルタヘナ法』に縛られる。欧州は医薬品を同法の適用除外とし、米国は批准もしていない。(中略)

 国家の危機管理という原点を見失って漂流した30年の代償は大きい」(2021/05/09 日本経済新聞・高田 倫志 ※一部、引用者により補足)。

断章310

 「もし自由社会が、貧しい多数の人々を助けることができなければ、富める少数の人々も守ることができないだろう」(ジョン・F・ケネディ)。

 

 「コロナ緊急事態宣言が延長され対象地域も拡大されることで、新たに約1兆円の経済損失が生じるという試算が明らかになった。

 野村総合研究所の試算によると、緊急事態宣言が4都府県で20日間延長され、愛知、福岡も追加されることで、さらに1兆620億円の経済損失が生じるという。個人消費が落ち込むことが主な要因で、GDP国内総生産)は年率で0.19%押し下げられるとしている。先月25日から今月31日までの合計でみると、経済損失は1兆7600億円にのぼり、失業者は約7万人増加すると試算している」(2021/05/08 ANAニュース・ABEMA TIMES)。

 

 「国全体でもマイナスの影響はありますが、一番大きな問題は、困らない人と困る人の差が著しいことです。外食、宿泊、小売は1年間も厳しい立場に置かれています。協力金も支給が遅れており、私のところにも悲鳴が聞こえています。一方で年金生活者、公務員、テレワーカーは経済的には困っていません。一部の人に負担を押し付けている今のやり方ではこの問題は解消されません。政府は緊急事態宣言の副作用をもっと真剣に考えるべきです」(石川智久:日本総合研究所)。

 

 劣化したエリートは、悲劇を招く。

 例えば、ノモンハン事件を見よ。ノモンハン事件ソ連側の呼称・ハルハ河の戦闘)で日本軍と戦ったソ連軍指揮官・ジューコフ兵団長は、日本兵の評価を聞かれて、「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」と答えた。日本軍の高級将校は、無謀な作戦と過大な自己過信と敵への侮りの結果、戦いに惨敗した。生き残った兵たちはだれもが思った。「ああ、みんな死んでしまったなあ」。

 

 あるアマゾンレビュワーは、『ノモンハンの夏』(文春文庫)のレビューに、「高級将校の無責任な体質は、現代日本においても明らかに受け継がれているのは、東日本大震災の際に東電の高級役員が家族を海外に退避させるとか、事故を起こしておきながらその原発を海外に輸出させようとするような狂気の沙汰をみても明らかである。だからきっと、このままでは日本はまた同じような轍を踏むことになるだろう」と書いた。

断章309

 戦前の日本は、欧米からの圧力に対抗し、民族・国家を守り、前進し、生き延びるために欧米に追いつくことに必死だった。アジアの大国になったが、代償は軍国主義だった。明治から大正、昭和へと続いた成功に酔い、夜郎自大になった日本のエスタブリッシュメント既得権益層)とくに軍部エリートは、対米戦争に賭けて負けた。

 まるで、「売り家と唐様で書く三代目(うりいえとからようでかくさんだいめ)」のように ―― 初代が苦心して財産を残しても、3代目にもなると初代の苦労を忘れて遊び呆け、ついに家を売りに出すほどに没落するが、その「売り家」という売り札の筆跡はしゃれた今風である ―― 。

 

 戦後の日本は、経済を復興して輸出で金を稼ぎ、アメリカのような豊かさを手に入れることに必死だった。冷戦という国際情勢にも恵まれて経済的には成功したが、代償はエコノミック・アニマルへの惑溺(わくでき)だった。そしてまたもや、日本のエスタブリッシュメントは、成功に酔って夜郎自大になって、敗北しつつある。

 

 戦前の日本では、軍による統帥権(引用者注:大日本帝国憲法下の日本における軍隊を指揮監督する最高権限)の独立により、巨大な政治現象としての戦争というものの研究を陸海軍大学が独占・秘匿していた。国民は、「国家戦略」や「防衛戦略」から疎外されていた。

 一方、戦後日本では、エコノミック・アニマルは、経済利益を優先するので、「国家」としてのプライド(誇り)や原理原則(プリンシプル)を後回しにする。また、「国家戦略」や「防衛戦略」もおろそかにされた。

 さらに、「戦後の日本では、滔々(とうとう)たるマルクス的平和論の中ではとうていそんなことをする雰囲気でもなかったし、また、教えてくれる先生もいなかった」ので、「先進国の大学で、戦略や軍事と題した講義を聞けない国は日本だけ」(『戦略的思考とは何か』岡崎 久彦)ということになった。

 そうして、日本には「戦略」がないという評価が定着したのである。「しかし、日本が自らの意思にかかわらず戦争に直面せざるをえない場合を考えておくのは、平和を望む者にとって、ごくふつうの教養の一部ではないだろうか?」(岡崎 久彦)。

断章308

 「日本の国家的危機と危機対応の姿は、戦後の『国の形』が国家的危機に取り組むには極めて“不具合”にできており、また、私たちの社会があまりにも無防備であるという厳然たる事実を示している」。

 2013年3月に新潮社から出版された『日本最悪のシナリオ 9つの死角』(財団法人・日本再建イニシアティブ)からは、すでに数回、引用をした。しかし情勢を踏まえれば、何度でも引用しなければならない。また何度でも言います。オールジャパンで危機に対応しよう。オールジャパンで危機に備えよう。

 

 「巨大なリスク社会と巨大なリスク世界が出現してきた。〈中略〉グローバル化は、ヒト、カネ、モノ、情報に加えて、パンデミックサイバーテロなどリスクのグローバル化でもある。それは新興国貧困層中産階級に引き上げる“上げ潮”効果を持つが、成熟民主主義国も新興国も等しく社会の中の格差を拡大させるリスクを高める。〈中略〉

 米国一極体制は崩壊し、多極化、さらには無極化の『新世界』が出現しつつある。太平洋、北東アジア、インド洋、中央アジア、中東での地政学的リスクがこれまで以上に高まっている。〈中略〉

 成熟民主主義国は財政赤字と国家債務の重圧、高齢化と人口減、ガバナビリティ(引用者注:ガバナンス?)の低下による統治不全リスクを抱え込みつつある。

 このような巨大リスク社会と巨大リスク世界を前に、日本はいかにも脆(もろ)い存在であり、備えの不十分な社会である」(『日本最悪のシナリオ 9つの死角』)。

 

 「盲点と死角は、日常、私たちが感じている日本のシステムとガバナンス(注:統治)と意思決定プロセスの問題点である。そこに地雷原のように埋め込まれた数々の神話とシンドローム(症候群)である」。

 「1. 同質性(と閉鎖性)を根拠に、日本が『安全・安心』大国であるかのように思い込み、それを自画自賛する『安全・安心症候群』。

2. リスクを冷静に評価し、それを受け入れることを回避し、ひいてはタブー視する『リスク回避症候群』(失敗や恥を怖れる杓子定規の段取り重視、式典化する訓練) 。

3. 『見ざる、聞かざる、言わざる』の三猿文化。つまりは、利害相関関係者(ステークホルダー)としての参画を意識的に排除し、各省、各部門のタコツボ化と縄張り争いに精出す『部分最適症候群』。

4. 『チームジャパンとしての対応』ができず、『オールリスク』を取る体制ができない『全体真空症候群』。

5. 明確な優先順位を設定することを忌避し、なかでも“損切り”の決断がなかなかできない『トリアージ忌避症候群』。

6. 権限と責任を曖昧にする『総合調整症候群』(総合調整という名の指揮命令系統の意識的曖昧化)。

7. 本部・本店は指図するだけ、ロジスティクス(調達・補給)も不十分、ただただ現場にしわよせを与える『ガダルカナル症候群』と『現場力』神話。

8. 国際社会とともに標準やルールを作り上げていこうという意思と能力を欠き、内輪の都合による進化に任せる『ガラパゴス症候群』。

9. 『安全保障国家』としての形も内容も未熟なまま、いざというときのアメリカ頼みの『GHQ症候群』。」である。

 

 早くから、問題は突き出されていたのである。

 問題から逃げず、失敗をおそれず、過去の誤謬をふかく学んで、そこから成功への道を見出さなければならない。

断章307

 事の真相が知りたい。これはデマに踊らされたデタラメなのか?

 4月29日付けの韓国紙・中央日報によれば、「韓国のムン・ジェイン大統領を批判するビラを散布した30代男性が侮辱罪で検察に送検されたことが伝えられると、野党が文大統領の批判に出た。刑法上侮辱罪は被害者や法定代理人が直接告訴しないと起訴できない親告罪であるため、文大統領側が告訴状を出したと推定されるからだ。

 29日、野党『国民の力』のファン・ギュファン常勤副報道官は『民主主義は消えて文主主義だけが残った』として批判した。ファン副報道は『侮辱罪は親告罪なので大統領が国民を告訴した前代未聞の出来事が起こった』とした。また『〈大統領のことを悪く言って気持ちが晴れるならそれも良いこと〉と言っていた大統領はどこへ行ったのか』とし『政権に対する批判に対して猿ぐつわをはめた』と鋭く批判した。あわせて『国民に対する弾圧を直ちに中断し、事件に対する立場を直接明らかにして謝罪せよ』と促した。

 『国民の力』青年非常対策委員も批判に参加した。キム・ジェソプ非常対策委員はこの日、党非常対策委員会会議で『前日私と同年齢のある青年が文大統領を批判するビラを散布した容疑で検察に送検された』とし『青年が大統領侮辱罪で起訴される状況に置かれた』と話した。キム非常対策委員は『私もこの席でチョ・グク元法務部長官の娘チョ・ミンさんを公開的に批判して名誉毀損容疑で警察に立件された』とし『本当に息が詰まる世の中』と話した。

 あわせてキム非常対策委員は『文大統領は、当選前は大統領を侮辱する程度は表現の自由カテゴリーに含んでもかまわないと言いながら、大統領を侮辱して気持ちが晴れるなら良いことだと言った』とし『だが、実情は大統領と権力者を批判すれば“最高尊厳”冒とくで処罰を受ける』と皮肉った。また『青年・老人問わず、脅迫の時代になった』と批判した。

 チョン・ウォンソク非常対策委員も『一体いつから大韓民国最高権力者は本人のことを悪く言う一人の若者に対して幼稚で偏狭な対処をするようになったのか』とし『大統領を悪く言ってストレスが解消されるならば聞くことができるという盧(武鉉)元大統領の配慮が本当に懐かしい』とした。チョン非常対策委員は『残念なことに今回の事件を通じて、大韓民国大統領の器は醤油皿にすぎなかったことを目撃してしまった』とし『永遠に権力に酔いしれて初心に返れない文大統領の彷徨が一日も早く終止符を打つよう願う』と批判した」というのだ。

 

 かつて大統領就任2周年に合わせ、ドイツ紙フランクフルター・アルゲマイネ(FAZ)に、「韓国は今、『革新的包容国家』を目指し、誰もが金銭面を心配することなく好きなだけ勉強し、失敗を恐れず夢を追い、老後は安らかな生活を送れる国を築いていっています」と、誇らしげに寄稿したムン・ジェイン大統領が、本当に告訴状を出したのか(或いは側近の告訴状提出に同意したのか)?

 ムン・ジェイン大統領への批判ビラは、“ヘイト”だったのだろうか? 「侮辱罪で検察に送検された」とは!?

 

 かつて日本の政治学者・山口 二郎は、「安倍に言いたい! お前は人間じゃない! 叩き斬ってやる」と反政府集会で叫んだそうである。山口 二郎は、警察(或いは検察)から「事情聴取」されたのだろうか? 「書類送検」されたのだろうか?

断章306

 「歴史は繰り返さない。歴史は韻を踏むのだ」という。しかし、「人類は歴史の教訓を決して学ばない」(E・トッド)らしい。なので、歴史は韻を踏むだけでなく、繰り返しもするのである。太古の昔から。太古とは?

 

 「人間が引き起こす身の毛もよだつ大量殺戮、血腥(ちなまぐさ)い権力闘争、暴力などは、さも動物時代の野蛮さの名残であるかのように言われてきた一方、親切や思いやりなどは『人間らしい』美点として喧伝されてきた。しかし、動物の側から言わせれば、これは公平な見方ではない。たしかに、人間と98%のDNAを共有しているチンパンジーは、権謀術数に長けた攻撃的なサルではある。だが同じだけのDNAを共有しているもう一つの種であるボノボは、チンパンジーとは対照的に、平等で平和な社会を好み、思いやりの心に富んだ心優しいサルなのである。つまり、階級社会も平等社会も、戦争も平和も(はたまた人間が専売特許だと思っている正常位のセックスや、他のあれやこれやのお楽しみも)、すべてチンパンジーボノボと同じ祖先から遺伝的に受け継いできたものなのだ」(『道徳性の起源』宣伝コピー)。

 

 「政治の起源は、人間性の起源より古い」とも言われる。

 「チンパンジーたちも集団生活を送るためにはリーダーを必要とするが、腕力で現在のリーダーを倒しても他のチンパンジーたちはそれをリーダーと認めないのである。リーダーを目指すチンパンジーは周到な根回しを行わなければならない。他のチンパンジーには各自の思惑があり、自分に都合のよいものをリーダーに推す。リーダーになるためには、各グループのボスたち(メスグループのボスたちも)の思惑を理解して利権を約束して協力を得なければならない。また、直接権力闘争に参加しないチンパンジーたちは日和見主義を決め込んで、どの場面でどう動けば利益が大きいかを判断する。チンパンジーたちは、政治の世界に熟達」(『チンパンジー政治学 ーー 猿の権力と性』の宣伝コピー)しているらしい。

 「コモンチンパンジーは計画を立てて相手の命を奪い、隣り合う集団を皆殺しにする。相手の縄張りを征服するために戦争を行い、メスのチンパンジーを略奪している。

 こうしたチンパンジーの行動が示しているのは、人間の特質である集団生活がどうして始まったのかというおもだった理由だ。つまりほかの集団から身を守るために集団生活が始まり、とりわけ武器や待ち伏せを計画できるほどの大きな脳を得てからは、その必要性は高まっていった。私たち人間は捕食者であると同時にその餌食でもあり、そのためにいやおうなく集団生活を始めるようになったのかもしれない」(ジャレド・ダイアモンド)。

 

 ほかの集団から身を守るために始まった集団生活。それが「国家」の始原なのだろうか?

 例えば、農耕民と遊牧民の間の争い。それは現代にも存在する。「ナイジェリアの警察当局は24日、同国中部で遊牧民とみられる集団が農耕民の集落を襲撃し、86人が殺害されたと発表した。一帯には夜間外出禁止令が出され、ムハマドゥ・ブハリ大統領は平静を呼びかけた。

 現場はプラトー州のバーキンラディ地区。一帯では、キリスト教徒が多いベロム人の農耕民が、イスラム教徒が多いフラニ人の遊牧民に21日に攻撃を仕掛け、これがきっかけとみられる武力衝突が数日にわたって続いていた。〈中略〉

 専門家はこの抗争について、2009年以降少なくとも2万人の死者を出しているイスラム過激派組織『ボコ・ハラム』による襲撃をしのぎ、ナイジェリアにとって最も懸念すべき治安上の問題になる可能性もあるとみている」(2018年6月25日 AFP通信)。

断章305

 「予想はウソヨ、予測はクソヨ」。

 また言ってしまった。「バカのひとつ覚え」に違いない。では、「予言」は? 

 

 エマニュエル・トッドは、近著『パンデミック以後』(朝日新書)の裏表紙で、「1951年、フランス生まれ。歴史家、文化人類学者、人口学者。家族制度や識字率出生率に基づき現代政治や社会を分析し、ソ連崩壊、米国の金融危機アラブの春、英国EU離脱などを予言」と紹介されている。

 トッドは、かねてから「アメリカはロシアと敵対するのをやめて中国から引き離す戦略に転じてほしい。ロシアはほかのどの国よりも中国を恐れています。そのことを理解しなければなりません。日本と同じようにロシアも隣国として中国に脅威を感じているのです。もし、優れた米国の大統領が、ロシアを中国から引き離し、友好的な関係を結べば、最先端の軍事技術を中国から遠ざけることができます」と語ってきた。わたしは、この見識に賛成する。

 

 ところが今、わたしたちが現実に目にしていることは、「ロシアのプーチン大統領は25日までに、敵対的な行動を取る『非友好国』のリストを作成するよう関係機関に命じた。ロシア外務省のザハロワ情報局長は同日放映された国営テレビ番組で、リストに米国が含まれていると明かした。リストに入った国は在ロ大使館の活動や職員の数で制限を受ける。

 バイデン米政権が発表した米駐在のロシア外交官追放を含む制裁に対抗する動き。バイデン大統領が提案した米ロ首脳会談に向け、交渉を有利に進める狙いもあるとみられる」(2021/04/26 共同通信)という確執である。

 

 国際関係学をチンパンジーから学ぶ必要がありそうである。

 「成熟した強力なオスが2匹の場合、最強のオスは、メスの広範な支持を得てライバルを孤立させ、安定した権力構造の確立に成功した。しかし、成熟したオスが3匹の場合、次点のオス2匹が連合関係になると、最強のオスがメスの支持を得ても、この連合に対抗できない。3匹の成熟したオスがいる、という状態は、権力構造を不安定化させるらしく、次点のオス2匹が連合して最上位のオスを追う、というパターンが、この群れの中で繰り返された」。

 「国際政治学を学んだ人間は、この本から、大きな感動と驚きを得る。集団での権力獲得を目指すチンパンジーの行動が、大変洗練され、むしろ人間のほうがそこから学ぶべきものがあるように感じられる」(『チンパンジー政治学 ーー  猿の権力と性』へのアマゾン・レビュー)からである。