断章70

 「日本人は高麗に関してほとんど知らない」「一般的に、日本で朝鮮に関する議論や知識といえば極端なまでに近年100年間、つまり韓国併合以降に偏(カタヨ)っている。・・・(しかし)歴史年表をひもとけば分かるが、高麗は過去1000年間の朝鮮の歴史のほぼ半分を占める」「現代の朝鮮に李朝の影響が強いのはもちろんだが、その根源は高麗にある」。

 「信じがたいかもしれないが、21世紀の朝鮮を理解するには、朝鮮の歴史をタイムトラベルし1000年前に戻り、かつての高麗と李朝の人々の言動をつぶさに観察して彼らの行動の根源にある価値観と倫理観を正しくつかむことだ」「そうすることによって初めて現代の南北朝鮮(韓国・北朝鮮)の状況を正しく解釈することが可能になると私は考えている」(『本当に悲惨な朝鮮史』 麻生川 静男)。

 

 「高麗の実態は現在の韓国の教科書や朝鮮の通史に描かれているレベルを遙かに超えた、言語を絶する悲惨なものであった。それについて、正しい情報を与えようとしない歴史書は『不作為の過失』というより、『虚偽記載』というべきであろうと私は考える。このような情報歪曲は、日本人だけでなく韓国人にとっても悲劇だと思う。つまり、『高麗史』『高麗史節要』ともウェブで全文が公開されているのであるから、遅かれ早かれ高麗の実態が明らかになってくるのは避けることができない。そうなると、いままでひた隠しにしていた高麗の恥部が明らかになり、従来の出版物の記述の信憑性が疑われることになるだろう。(中略)

 皆で口裏を合わせて、高麗社会にあったおぞましい現実は一切なかったことにしようと画策しているのではないか、と勘ぐりたくもなる」(同書)。

 「高麗史節要の至る所に悖乱(ハイラン)、欺瞞、強奪、虐殺、寇掠の数々が嫌というほど書かれている。よくぞ、こんな世界に暮らしていたものだ、と他人事ながら憐憫(レンビン)にたえない」(同書)。

 

 実質的には1221年に始まったモンゴルの侵入、1260年以降のモンゴルによる実質的統治で、高麗は筆舌に尽くしがたい悲惨な目にあわされた。例えば、1231年の講和で、モンゴルは「莫大な戦利品を奪っていった。その一部を挙げると、馬2万頭、紫蘭1万匹、テンの皮1万枚、黄金70斤、銀1300斤、など。これらの金品の他に数千人の少年少女(童男女、数千人)を連れ去った」。

 「『高麗史』『高麗史節要』の両方に1333年7月から1335年4月までの記録が全く見当たらない。(引用者注:著者の推測では、)1335年(27代忠粛王)のときに、高麗から元の朝廷に使節を出して、童女を探す――つまり、強制的な人さらい――のを止めてくれと嘆願したとの記事が見える。(中略)つまり、記事内容があまりにも惨め過ぎて、李朝の史官たちが書き写すに忍びなかったので、ばっさり削除したのではないかと想像される」(『本当に悲惨な朝鮮史』)。

 “従軍慰安婦”問題とは、当時の貢女や童女さらいになぞらえて、あたかも「江戸のカタキを長崎で討つ」ごとく、“モンゴルの恨みを日本で晴らす”プロパガンダなのではないだろうか。

 

 「1271年初頭に元宗は、モンゴルの皇女(フビライの娘)を自分の息子の嫁に欲しいと願い出た(請婚)。10月には使者がモンゴルから戻り、フビライの許可が下りたことを知らせる。世子(後の忠烈王)がモンゴルから戻ってきたが、すっかりモンゴル風の服装と髪型(弁髪)になっていた」(同書)。

 以後、31代恭愍王に至るまで、歴代の国王は元王室の王女と結婚した。

 「モンゴルはこれまでの契丹女真と異なり、直接的な内政干渉をした。国内には多くのモンゴル軍人が駐留し、反発感情が生まれた。(中略)一方、『高麗史』には忠烈王がモンゴルに日本侵攻を働きかけたとの記述がある。忠烈王が自身の政治基盤強化のため、モンゴル軍を半島に留めさせ、その武力を後ろ盾とする目的であったと見られる」(Wiki)。

 「また胡服弁髪の令(1278年)を出したほか、一切の律令制定と発布はモンゴルの権限とされた。以降の王はモンゴルの宮廷で育ち、忠宣王は『益知礼普花』(イジリブカ)、忠粛王は『阿剌訥失里』(アラトトシリ)、忠恵王は『普塔失里』(ブダシリ)と、モンゴル風の名も持っていた。このような中で高麗貴族の間ではモンゴル文化が流行した」(同)。

 だが、韓国の『検定版 高等学校韓国史』には、あっさり「モンゴルと活発に文化を交流する」とあるだけである(笑い)。

 

 「宦官とは、男性の機能を失くした男なので、誰も好んでなろうとはしないであろう。しかし、元の支配下にあった高麗では、元の宮廷からの要求に応えて数多くの宦官を元に送り出していた。その中にはかなりの大官にまで出世する人もいた。(中略)もともと卑賎の身分であった者が宦官となり元で出世したあと、本国に高級官僚として戻ってくると、高麗王をもしのぐ強大な権力をふるった。高麗の貧民はその様子を見て、万一の僥倖を恃んで自分の子供や弟を無理やり去勢し、宦官にした。それだけでなく、自ら進んで宦官になる者もいたほどだ。このような宦官の多くは元の国力や元の皇帝の力をバックにして、横暴にふるまい、高麗の人々を一層苦しめた」(『本当に悲惨な朝鮮史』)。

 

 高麗も末期になると、まさに末世である。『高麗史節要 巻33』によれば、「廉興邦の母方の従兄である李成林が侍中になった。ワルどもが徒党を組み、朝廷の要職を独占した。朝廷がことごとく李成林一派の私有物になったので、自分たちの都合のよいような政治を行い、官職や爵位を売ってぼろ儲けした。他人の持ち物の田畑・山林・広野だけでなく、奴婢までも勝手に奪い取った。その上、何百人、時には何千人もの徒党を組んで、王室の所有であろうと、個人の所有であろうとお構いなしにすべて取り上げた。それで、脱走した奴婢や逃散した農民などが官憲の追手から逃れるため集まってきた。知事や官吏たちもその横暴に全く対抗できなかった。民が逃げてしまったので、政府も地主たちも収入が途絶えてしまった」(『本当に悲惨な朝鮮史』)。

 

 そして、相変わらずの支配勢力内での「党争」である。

 韓国ジョークに「韓国人が3人寄ると7つの派閥ができる」があるそうだが、それだけではない。勝った方が、負けた方を完全に否定する血みどろの闘いなのである。「『高麗史節要 巻33』 誅殺した者たちの男の子孫は、ゆりかごの赤ん坊まで含めてみな川に放り込んで殺した。追及を免れた者はほとんどいなかった。また彼らの妻や娘たち、30人は官婢の身分に落とした」(同書)。

 

 「現代の韓国社会全体に巣くう不平等感、他人不信感は(少なくとも)高麗の時代から連綿と続く伝統で、持つ者が持たざる者を陰に陽に虐げる結果に他ならないといえる。ミクロ的には、ナッツリターン事件はその典型だし、マクロ的には10大財閥が韓国の企業活動全体の7割を占め、その圧倒的な支配力を背景にして、下請けの利益圧迫を図っている構図がある」(同書)。