断章81

 『検定版 高等学校韓国史』(2013年初版・明石書店)の「 Ⅴ 近代国家樹立運動と日本帝国主義の侵略」の各節は、「1.韓半島を占領するために戦争が起こる 2.中国、民主共和国をたてる 3.東学農民運動が起こる 4.近代的改革を推し進める 5.近代主義国家をうちたてようとする 6.経済侵奪に立ち向かう 7.国権を奪われる 8.抗日義兵運動が起こる 9.愛国啓蒙運動を展開する 10.近代社会へ進む 11.近代文物の受け入れで生活が変わる」である。

 このⅤ章の最初の見開きに、洋装の正装をした高宗や東学党幹部や義兵の写真とともに、独立門の写真がある。

 独立門に関するエピソードがある。

 「独立門の前で『この独立って、どこの国からの独立?』と質問すると、(韓国の)多くの若者はそんなことも知らないのかと憤慨しながら『日本からに決まっているだろう』と答えます。そう答えたら、『でも、説明板を見てごらん。この独立門が建てられたのは1897年と書いてあるじゃないですか。韓国併合1910年ですし、光復(独立)は1945年でしょう? だからこれは日本からの独立よりもっと前に建てられたものですね』というと、彼らは絶句して思考停止してしまうんですね」。「それは『有史以来、朝鮮半島の国は独立国家であった』というデタラメが学校で教えられているからです」(『困った隣人 韓国の急所』)。

 独立門の説明板は、今どうなっているだろうか。

 

 さて、『検定版 高等学校韓国史』「 Ⅴ 4. 近代的改革を推し進める」では、「甲午・乙未改革は、開港後に続けられた近代的改革に対する要求を吸い上げ朝鮮の全分野にわたって行われた。これにより封建的身分秩序が崩れ、近代社会に進み出ることができる制度的な土台が整えられた。・・・日本の干渉を排除できなかったという限界があった」という。

 史実ではない。「朝鮮は自立的内包的発展ができたのに日本帝国主義の収奪で妨げられた」という民族主義シナリオによる完全に“逆立ち”した記述である。実際は、『検定版 高等学校韓国史』の177ページで列挙されている甲午・乙未改革は、「日本の干渉」(日本の政治的軍事的プレゼンス)があってこそ可能だったのである。

 

 1894年以降の「改革法令は日本公使が主導したもので、まもなく到着した日本人『顧問』が仔細に調整した。日本は朝鮮式機構の複雑多岐にわたる悪弊と取り組み、是正しようとした。現在行われている改革の基本路線は日本が朝鮮にあたえたのである」(『朝鮮紀行イザベラ・バード)。

 この見解が正しいことは、日清戦争後の三国干渉と閔妃殺害後に日本の政治的軍事的プレゼンスが後退したら、朝鮮の悪弊に阻まれて、稟議されても発布されず、発布されても施行されず、施行されてもうやむやになることの多かった「甲午・乙未改革」がたちまち頓挫したことで明確である。

 

 清が敗退し、日本が三国干渉と閔妃殺害(乙未事変)で後退した後に、朝鮮で存在感を増したのはロシアである。高宗は、ロシアに“事大”する。高宗は、王宮から抜けだし、ロシア公使館に居を移した(俄館播遷)。

 「ロシア公使館に遷幸して以来国王が享受した自由は朝鮮にとっては益とならず、最近の政策は、・・・好ましくない」。「昔ながらの悪弊が毎日のように露見し、大臣その他の寵臣が臆面もなく職位を売る。国王の寵臣のひとりが公に告発されたときには、正式の訴追要求がなされたのに、その寵臣はなんと学務省副大臣になっている! (中略)国王はその王朝の伝統のうち最悪な部分を復活させ、チェック機関があるにもかかわらずふたたび勅令は法となり、国王の意思は絶対となった。そしてその意思は国王に取り入ってその不安や金銭欲につけこみ、私腹を肥やそうという下心のある者や、王宮脱出の際に助けてくれた側室の朴氏や厳氏の言うがままであり、国王が人の好いのをいいことに、難なく職位を得ては自分の一族にそれを売ったりあたえたりしている寵臣や、愚劣なへつらい屋のなすがままなのである。(中略)善意の人ではありながらも優柔不断な国王は、絶対的存在であるのに統治の観念がなく、その人柄につけこむさもしい寵臣のおもちゃであり、貪欲な寄生虫にたかられ、しかもときには外国の策士の道具になっている。そして常設しておくべき機関を壊すことによって政府の機能を麻痺させ、私欲に駆られた官僚の提案する、金に糸目をつけない計画を承認することによって、経済財政改革を一過的で困難なものにしている」(『朝鮮紀行』)。

 「朝鮮国内は全土が官僚主義に色濃く染まっている。官僚主義の悪弊がおびただしくはびこっているばかりでなく、政府の機構全体が悪習そのもの、底もなければ汀(ミギワ)もない腐敗の海、略奪の機関で、あらゆる勤勉の芽という芽をつぶしてしまう。職位や賞罰は商品同様に売買され、政府が急速に衰退しても、被支配者を食いものにする権利だけは存続するのである」。(同書)この“官僚主義”は、現代官僚制のものではなくて、アジア的王朝的なマンダリンなものである。

 

 「日本がその隆盛時に悪弊を改めるために行った試みは大部分が廃止された。国内は不穏で東学党にかわり『義兵』が出現した。地方長官職その他の職位を売買する有害きわまりない習慣は多少抑制されていたが、宮内大臣をはじめ王室の寵臣は破廉恥にもこの習慣を再開した。また国王自身、潤沢な王室費がありながら、公金を私的な目的に流用し、安全な住まいにおさまってしかも日本人その他の支配から自由になると、さまざまな面で王朝の因習に引き返してしまった」(同書)というのが、史実である。