断章93

 中国の王毅・外交担当国務委員兼外相は12月4日、ソウルでの韓中外相会談で、「中国は小国をいじめない」と言ったそうである。

 「Liar!   Liar!」(B'z) なんてスッパイんだ。

 太平洋の島国ナウルやフィリピンと揉めた時に、「小国が相変わらずごねている」と言い放ったのは、つい先日のことであった。

 そして、忘れてはなるまい。中越戦争のことを。奇しくも今年、2019年は「中越戦争」から40年であった。

 「中国の鄧小平は1979年、『小さな友人が言うことを聞かないので、尻をたたいてやる』と言ってベトナムに侵攻した。これに対してベトナムは全土に総動員令を出して抵抗し、中国はわずか1カ月で撤収した。今年はこの中越戦争から40周年だが、中国はこの戦争について今も一切言及しない」(2019/6/22 朝鮮日報オンライン)。

 

 「ベトナム戦争後のインドシナでは、ポル・ポト率いるクメール・ルージュが1976年以後カンボジアを支配して大量虐殺・恐怖政治を行っていた。クメール・ルージュは、ベトナムが着々とインドシナ全域へ支配領域を広げていると思い、次はカンボジアが併呑される強い危機感があった。両国間の対立は激化して、1978年には国交を断絶した。

 ベトナムカンボジアから亡命していたヘン・サムリンたちを支援するという形でカンボジアに侵攻し、1979年1月にプノンペンを攻略、ヘン・サムリンによる親ベトナムカンボジア政権を樹立した。

 カンボジア側からすれば、ベトナムインドシナの覇権を握る野望を持っているという危惧が、現実のものとなったのである。一方、当時のベトナム政府にとっては、カンボジアとの未確定の国境問題、ポル・ポト政権が、カンボジア領内のベトナム系住民への迫害を含む恐怖政治を行い、小規模だが繰り返されるベトナムへの侵攻・挑発は看過できないことであった。

 ポル・ポト政権はソ連ではなく、中国から支援を受けていた。当時の中国は、国境でソ連軍と交戦するなど対立関係にあった。中国にしてみれば、ベトナム政府が中国から援助された武器も使って、中国の友好国であるカンボジアポル・ポト政権を崩壊させたことは、『恩を忘れた裏切り行為』であった。また、統一ベトナム成立後の社会主義化政策で旧南ベトナム地域の経済で力を持っていた中国系住民を追放したことも中国を戦争に駆り立てた。さらに1978年11月にベトナムソ連とソ越友好協力条約を結んだことも中国を刺激し、ソ連の同盟国支援を試す狙いも中越戦争にあった(中国の計算通りソ連ベトナムを支援するも直接軍事介入に出ることはなかった)。

 1979年1月1日以降、中国は56万人の兵隊をベトナム国境に集結させ威圧を開始。2月15日に、鄧小平は、『同盟国カンボジアへの侵攻と同国内の中国系華人の追放(ベトナム側はこれを否定)』を理由とし、『ベトナムに対する懲罰的軍事行動』を正式発表することをもって宣戦布告した」。

 「中国軍はその後、ベトナム北部の五つの省を制圧したが、中国野戦軍はその過程で大きな被害を受けており、支払った代償は多大であった。一方、ベトナム軍は包囲されることなくランソンから後退し、南方に約100km離れたハノイ郊外に構築された巨大陣地に入った」。

 「ベトナム軍主力と軍事衝突すれば、野戦軍のさらなる被害増大と占領地の維持が危うくなることから、中国中央軍事委員会は撤退を決定、『ベトナムへの軍事的懲罰の完了』宣言とともに、中国軍に対して撤退を命じた。撤退を始めた中国軍に対してベトナム軍主力は追撃を開始するも、中国軍は占領していた省から撤退するにあたり、設備や家畜などを略奪し、住宅やインフラを徹底的に破壊する非人道的な焦土作戦を行い、3月16日までにベトナム領から撤退した。」「民間の統計によると、1ヶ月足らずのこの戦争で、中国側はおよそ2万6千人が戦死し、3万7千人が負傷した」(Wikiなどから要約・再構成)。

 

 「中国が戦争を発動した本当の原因は、当時、中国共産党の執政の“合法性”が危機に直面していたからだ」という見解がある。 

 「文化大革命後期、中国の社会矛盾は複雑に絡みあっており、そのうえ、当時の民衆は文革中の執政者に対する共産党の処理方法に非常に反感を持っていました。そのような時に、中越戦争が起きたのは、民衆の視線をそらすためでした」(仲 維光)。

 米中貿易戦争が激化して、中国経済がさらに苦境に落ちた時、中国共産党が民衆の視線をそらすために、新たな“小国いじめ”をおっぱじめることを警戒すべきである。