断章150

 「あたし中卒やからね 仕事をもらわれへんのやと書いた女の子の手紙の文字は とがりながらふるえている ガキのくせにと頬を打たれ 少年たちの眼が年をとる 悔しさを握りしめすぎた こぶしの中 爪が突き刺さる」(「ファイト」♪中島 みゆき)

 

 中卒と高卒の間には、越せない断崖があった(夜行列車で集団就職した中卒の苦闘)。おなじ高卒であっても、都会の高卒と田舎の高卒の間には断崖がある。

 「“田舎の学問より京の昼寝”ということわざがあります。田舎で学問を一生懸命勉強するよりも、都会である京都で昼寝をしながら、のんびりと過ごすほうが“多くの学びを得られて、知識も豊富になる”という意味です。

 いくつかの地方を巡っていると、まさにこのことわざの意味を痛感している若者が多いと実感します。だからこそ当然、みんな東京へ行きたくなる。インターネットの発展により、地方と都会の情報格差は縮まったと一時期は言われていましたが、わたしはまったくそんなことはないと考えています。同じ情報を知るスピードは追いついても、その情報に『実感(=体温やリアリティ)』がない。だから、東京に出たほうがいい! 出るべきだ! という若者が増えている」と、あるブロガーさんが書いている。そして、もちろん高卒と大卒の間にも断崖がある。

 

 「親の所得や社会的地位、あるいは本人の容姿や体力など、勉強しても克服できない要素が残る事は否定できない。しかし、社会活動の多くの分野で、勉強の成果はこれらよりずっと重要な地位を占めている。しかも、勉強において、生まれつきの能力は決定的な要素ではない。それよりも、方法と意欲のほうがはるかに重要だ。

 だから、日本社会は、恵まれない環境に生まれたものにとっては、大変ありがたい社会なのである。学歴社会や受験体制を批判する前に、まずこのことを認識する必要があるだろう。

 現在の仕組みの最大の問題は、『勉強で可能性が開ける』と言うチャンスが、大学入試の段階でほぼ終わってしまうことなのである。その後では、勉強によって新しいチャンスが開ける機会が少ない。『学歴社会』とは、まさにこのことである。つまり、『学校教育以降の勉強の努力がカウントされない社会』と言う意味なのである。

 言い換えれば、日本では『勉強社会』がまだ不十分であることこそが、問題なのだ。したがって、『勉強しなくても良い社会』を作ることではなく、『勉強することがいくつになっても報われる社会』を作ることが必要である。

 私は暗記・詰め込み教育の重要性を強調したい。若い時に詰め込み教育を受けるのは、大変意義があることだ。『想像力のための教育が必要』と言われるけれども、想像は学習からしか出てこない。問題は、詰め込む内容が不適切なことにある(そして、問題意識がない年齢で詰め込みを行うことにある)」と、野口 悠紀雄はいう。

 

  格差の拡大に伴って、児童・生徒の貧困も問題になっている。しかし、1950年代のわたしたちと比べてみれば(「今のところ」と付言しなければならないのが残念だが)、今の日本の社会は、やる気があって勉強すれば可能性が開かれる社会である。例えば、北海道知事・鈴木直道である。「1981年埼玉県春日部市生まれ。県立三郷高等学校在学中に両親の離婚により母子家庭で育ち、経済的な事情から大学進学を断念する。東京都職員採用試験に合格し、18歳の1999年、東京都庁に入庁した。19歳の2000年4月、法政大学第二部(注:夜間である)法学部法律学科に入学し、地方自治を専攻、4年で卒業している」(Wiki)。

 

 「私は、経済的な意味でも物理的な環境の意味でも、勉強に向いているとは言えない状況で育った。思う存分に勉強できたらどんなにすばらしいだろうと思いながら、勉強を続けた。また、私の周りには、非常に高い能力を持ちながら、経済的な理由等によって大学進学を断念せざるを得なかった人が多数いる。

 だから、勉強できる客観的な条件に恵まれながら、能力を理由に勉強しない生徒の言い訳は認めたくない。大学に入ったとたんに勉強を放棄する学生には、せっかく与えられた貴重なチャンスを無駄にするなと忠告したい。『ゆとり』を主張する教育改革論者には、教育を受ける権利を子供から奪わないでほしいと訴えたい。『落ちこぼれの生徒に温かい目を』と言う教育評論家には、能率的な勉強法を教える以上に暖かい方法があるのだろうかと問いたい。そして、『詰め込みより創造を』という人には、詰め込みなくしていかなる創造もありえないことを指摘したい」(野口 悠紀雄)。

 

【参考】

 「国が豊かになるためには、国民が優秀であることが不可欠です。資源が豊富だったり、土地が広くなったりすれば、国は豊かになると言うイメージがありますが、それだけで豊かになった国は、あまりありません(引用者注:肥沃な大地をもつアルゼンチンや原油を埋蔵するリビアをみよ)。古今東西、豊かな国と言うのは、国民の教育レベル、文化レベルが高いものです。

 日本が明治維新以降に急成長したのも、教育制度を整えたからだといえます。日本は、明治維新前は大して肥沃でもない土地に、国民の8割以上が農業に従事する貧相な農業国家に過ぎませんでした。しかし、明治新政府は、わずか数年で義務教育の制度を整え、明治中期には子供の大半が教育を受けることができました。日露戦争当時では、日本はロシアよりもはるかに識字率が高かったのです。明治日本は、欧米でもあまりないほどの教育制度が整った国だったのです。

 明治日本は教育を非常に大事にすることで急激な経済発展を遂げたわけですが、現代の日本は決してその伝統を受け継いではいません。現代日本では、少子化で子供が少なくなったと言うのに、その少ないはずの子供にさえまともに教育を施していないのです。今の日本の大学生の約半数は、利子がつく奨学金をもらっています。これは奨学金とは名ばかりで、要は借金です。つまり、今の大学生の約半分は、借金をしないと学業を続けられない状態にあるのです。

 なぜこういうことになっているのかと言うと、不況続きで親たちの経済的余裕がないところに、大学の授業料の大幅な値上げが行われたからなのです。国立大学の授業料は、昭和50年には年間36,000円でしたが、平成元年には339,600円となり、平成17年からは535,800円にまで高騰しているのです。 40年の間に、なんと15倍に膨れ上がったのです。しかも、日本では奨学金制度が全く充実していません。だから、大学生の大半は、社会に出るときに莫大な借金を背負うと言うことになっているのです。また、お金がないために進学をあきらめた子供たちも大勢いると思われます。

 富裕層は、自分の子供が良い職についたり、家の事業を引き継いだりするためには、教育が重要だと言うことを知っていますし、教育のためにお金を惜しみません。それは、古今東西の社会で同様のようです。

 ただ、庶民はというと、なかなかそれができません。教育の重要性は分かっていても、そのための費用を出せなかったり、教育の機会そのものがなかったりします。また、そもそも教育の重要性など全く認識せず、子供が物心ついた時から、働けるだけ働かすという家庭も多かったのです。だから、庶民に教育を施すには政府が主導しなければならない、とアダム・スミスは提言しているわけです」(大村 大次郎『超訳 国富論』から引用・紹介)。