断章154

 問題は、何一つ片付いていない。世界に全体主義ポピュリズムの影が広がり、保護主義が強まり、ブロック化し、グローバリゼーションは逆回転し始めている。その最中にも、債務の膨張、地域紛争、新興国デフォルト、少子高齢化、富の偏在と格差などは続いている。

 さらに、「新型コロナウイルスの感染拡大による外出自粛などで様変わりした消費の風景がある。日経MJが全国の消費者1000人に調査したところ、『毎月の支出を減らす』と回答した人は53.8%に上り、節約志向が強まることになる。緊急事態宣言が一部地域で解除されたが、消費を巡る環境はこれから厳しさを増しそうだ」(2020/05/30 日本経済新聞)というのである。

 であるなら、新型コロナウイルスに感染した経済は、景気後退(2四半期連続のマイナス成長) → 不況(年10%前後のマイナス成長、あるいは3年以上のマイナス成長) → 恐慌(信用収縮や信用崩壊を伴う著しい不況) → 大恐慌(金融システムが崩壊し、実体経済は大崩落して企業倒産が相次ぎ、失業者が街にあふれ、個人・企業・政府ともに疲弊し、場合によっては通貨が暴落、ハイパーインフレなどに見舞われる)と、経済危機の段階を徐々に進んでゆくのだろうか。それとも、何かをきっかけに(例えば、新興国の連鎖デフォルト)、経済危機の“シンギュラリティ”がきて、一気に恐慌に突入するのだろうか。

 

 レイ・ダリオは、「わたしたちは、1930年代的危機に際会している」と言う。だとすれば、わたしたちは、また、世界・国家・民族の未来を賭して激しく戦う(1930年代ドイツ的)時代に直面しているのだろうか。

 もしそうなるとすれば、わたしたちは、この「想像も及ばぬほど雑多であり錯雑とし混濁し、苦痛と困難に満ちた世界」で生活する労働者階級に地上の楽園(ユートピア)を約束する共産主義マルクス主義)との、再び三度の死闘的な対決を余儀なくされるだろう。

 というのは、体系的なイデオロギーは、根底的(ラディカル)本質的に乗り越えられないかぎり、何度でもゾンビのように蘇(よみがえ)ってくるのだが、瀟洒(しょうしゃ)な山荘なり静謐(せいひつ)な書斎でしか読めないようなヘーゲルと違って、より俗耳に入りやすい“救済”を約束するのが、マルクスだからである。

 

 戦後の長い繁栄・安定(停滞?)によって、日本は総じて優しくひ弱くなり、大正デモクラシーの頃とは比べものにならない自由主義個人主義)の厚みを獲得し、もはや日本共産党にも民青行動隊を率いるような「突破者(トッパモン)」がいないので、激烈な政治危機はありえない、というだろうか。

 だが、一寸先が闇であるのは、政界に限ったことではないのである。歴史は、必要な時には躊躇なく、戦いを厭わぬ「政党政派」「志士」「突破者」「狂人」を舞台に呼び出すのであるから、危機時の“激烈さ”は、平時には思いも及ばぬものなのである。