断章155

 一国の栄枯盛衰は人材にかかっている。それは、散文的な穏やかな日々の続く時代にも、目くるめくような疾風怒濤の時代にも、つねにプリンシプルである。

 だから、エリート教育、英才教育は、どんな時代であろうと必要である。エリート教育、英才教育を捨ててしまった国家・民族は、枯衰(ほろび)る。

 但し、全き危機の時代(今はまだ完全にはその姿を現していない)には、そんじょそこらのエリート、学校秀才では、国家・民族を導いて危機を突破することができない。それは、戦前(大正昭和)の学校秀才・エリートが蝟集(いしゅう)した旧・日本軍指導部の“おごり”“お役所仕事”などに明らかである。そんじょそこらのエリート・学校秀才の“枠”を踏み越えた「リーダー」でなくては、国家・民族を導いて危機を突破することができないのである。

 

 そんな「リーダー」がいるの(いたの)だろうか? 確かにいた。

 「この人を見よ」、吉田松陰である。

 しかし、「吉田松陰は奇跡である」。奇跡であるから、再現性がない。

 なので、松陰を継ごうと志す者が、吉田松陰の伝記や残したものの「超訳」「意訳」「新釈」「解説」をどれほど読み込んでも、吉田松陰の神髄に至ることはできないのである。

 率直に言って、吉田松陰の伝記や残したものの「超訳」「意訳」「新釈」「解説」は、たかだか「経営者の覚悟」「教育者の自戒」「新社会人の心構え」「学生に贈る言葉」へと“希釈された”吉田松陰でしかない(“希釈”を否定しているわけではない。念のため)。

 真の「リーダー」は、意図的に創ろうとしても創ることができないのである。

 

 それでは、西郷隆盛大久保利通を育んだ薩摩の郷中教育はどうだろうか?

 「薩摩には『詮議(せんぎ)』といって児童の判断力を鍛える教育方法があった。例えば『殿様の用事で急ぐ場合、早駕籠でも間に合わぬときはどうするか』と子供に問い、答えさせる。ふだんから、仮定の質問に答え、対処法を考える訓練をしていた。これにより、いざという時の処置判断を誤らせない。

 西郷も大久保もこの教育で育った。幕末の混乱期、最も見事な政局判断をみせたのは、彼ら薩摩藩の面々であった」(磯田 道史)という。

 しかし、郷中教育で育った維新元勲たちが位人臣を極め、権門勢家となるや、「権門上(かみ)に傲(おご)れども 国を憂うる誠なし 財閥富を誇れども 社稷を思う心なし」になったことを、後世のわたしたちは知っている。

 

【参考】

 「この郷中教育では、いろいろな掟(おきて)や規則があるのですが、その中の代表例は『負けるな』、『嘘をつくな』、『弱いものをいじめるな』の三つです。負けるなとは、勝負で相手に負けるなということもあるでしょうが、自分に負けるなという教えも含まれていると思います。弱い者いじめをするなということは、やはり当時も『いじめ』があったことを示していると思います。だからこそ自分より弱い者をいじめる行為は、武士として卑怯なことと戒めたのでしょう。

 また、郷中教育では『日新公(じっしんこう)いろは歌』が聖典のように用いられていました。これは薩摩島津家中興の祖とされる島津忠良(後に日新斉と号する)がつくった歌を毎日毎日、それこそ大人になるまで何千何万回と唱えていたそうです。その最初の『い』の歌が、『いにしえの道を聞きても唱えてもわが行いにせずば甲斐なし』です。
 どんなに昔の立派な教えを学んでも、自分の行動に活かさなければ意味も価値も無い、という意味ですが、現代社会でも通じる実践的な教えですね」(久留米あかつき幼稚園長)。

 ―― 引用者注:郷中教育については、安藤 保『郷中教育と薩摩士風の研究』(南方新社)も読むべきである。