断章162

 日本共産党は、そもそもがコミンテルン日本支部として誕生したのであるから、ソ連(ロシア)共産党の言いなりだった。

 自称「知識人」リベラルの源流である進歩的文化人は、そんな日本共産党の同伴者・取り巻きだった。共産主義マルクス主義)オタクだった。というのは、高等教育を受けたインテリは、来世に救済されるという「宗教」「神」を信じることができなくなった。彼らインテリにとって、「神は死んだ」のである。

 そこに起きたのが、1917年10月のロシア革命である。その勝利に幻惑された世界中の(もちろん日本の)インテリは、共産主義マルクス主義)の虜(とりこ)になった。なぜなら、「地上の楽園」を約束する共産主義マルクス主義)に、心の拠りどころを見つけたからである。

 

 ところが、実際のところ、ロシア革命後にロシア共産党ボリシェビキが樹立したものは、「社会主義国家」ではなくて、共産党独裁の「全体主義国家」だった。「社会主義」は、実は、ソ連(ロシア)共産党の“プロパガンダ”の中にしかなかったのである(現代中国、北朝鮮も同じである)。

 ソ連(当然、中国や北朝鮮も)で行われた粛清・テロルは、血みどろだった。ところが、日本共産党社会党はもとより、進歩的文化人(文学者・経済学者・哲学者・歴史学者の大部分)も、こうした問題については驚くほど鈍感であり、無関心だった。

 ソ連や中国の“プロパガンダ”に馴らされ、信じていたのである ―― 自称「知識人」リベラルも同じである。

 

 現在の日本共産党や同伴者・リベラルたちは、あの醜悪かつ残虐な粛清・テロルの原因は、あたかもロシアの経済的後進性や指導者の個性がすべてであったかのように語っている。「マルクス主義そのものには問題がない」とも。

 

 しかし、「歴史(社会)認識としては、あまりにも感性的直感的で、現代革命の思想としては有効性に乏しいように思われて」、インテリから弊履(へいり)のごとく捨てられたバクーニンは、すでに、1873年マルクスのアキレス腱をこう鋭くついていたのである。

 「労働者大衆を“地上の楽園”へと導くはずの『プロレタリア独裁』とは、プロレタリアートの独裁でもなければ、プロレタリアートによる独裁でもなく、さらにプロレタリアートのための独裁でさえない」。いわく、「マルクス氏の考案した自称人民国家とは、・・・人民自身よりも人民の真の利益をよりよく知ると称する特権的少数者による大衆の支配に他ならない」(訳:勝田吉太郎)と。