断章190

 今年は戦後75周年の節目ということで、過去の戦争に思いをはせる報道も多かった。

 8月10日の日本経済新聞社会学者の談話が載っていた。

 「戦争を反省することで重んじられるようになったものに教養主義がある。もともとは大正期に勃興したが、戦争を軍部の学歴エリートが導いたので、戦後、大衆の教養の大切さが広く認識されたのだ。戦時中にリベラルな思想が抑圧された反動もある。身のまわりの生活だけでなく、社会や政治にかかわることの意義を誰もが認めていた。

 教養に憧れたのは、特に真面目にコツコツと働いた勤労青年らだった。戦後しばらくは、勉学が優秀であっても中卒、高卒で働かざるを得ない人がたくさんいて、その鬱屈(うっくつ)や悔しさがバネになっていた。1950~60年代に教養主義は最盛期を迎え、人文科学や社会科学の隆盛を支えた」(以下、略)。

 

 わたしは、家庭の事情で、小学校・中学校の9年間で6回も転校した(都会へ、田舎へ、山間部へ、海岸部へと)。転校先で新しい友だちができるまでは、図書室が友だちだった。母親の健康がすぐれなかった時期は、休暇になるたびに祖父母宅に預けられた。里山での山遊びは楽しみだったが、ある意味、人生のスタート地点ですでに「負け組」だった。

 

 そうだ。ルサンチマン、コンプレックス、トラウマ、妬み、嫉みの塊だった時期もあった。

 しかし、3K(「きつい (Kitsui) 」「汚い (Kitanai) 」「危険 (Kiken) 」)の現場仕事の経験をし、病気療養し、歩合制の飛び込み営業に転じ、さらに資格試験に合格して見習い期間を経て、さらに独立・自営へとたどり着いたことで、ルサンチマン、コンプレックス、トラウマ、妬み、嫉みにも意味があったと知った。die-hard(最後まで頑張る)のバネになったのだと。

 

 わたしたちが工場でドリルの切削油にまみれ、工事現場でホイールローダーのホコリをかぶり、バックヤードの荷受けでギックリ腰になっていた頃、お勉強をしていただけの、自称「知識人」リベラルから、「ネトウヨとは、保守界隈の著名人たちの理論や言説に寄生し、その受け売りをインターネットの言論空間で繰り返す烏合の人々である」と言われ、「低学歴のアタマ悪い馬鹿だよね」と言われても、痛くも痒くもない。

 なぜなら、自称「知識人」リベラル。例えば、鶴見 俊輔を見よ! 

 「鶴見 俊輔は、日本の哲学者、評論家、政治運動家、大衆文化研究者。アメリカのプラグマティズムの日本への紹介者のひとりで、都留重人丸山眞男らとともに戦後の進歩的文化人を代表する1人とされる」。「晩年、2000年以降、日本共産党支持の姿勢を明確にし、2004年6月には、大江健三郎小田実らと共に九条の会の呼びかけ人となった」―― 注:但し、この項目は、コロナ禍で図書館に行ってないので、裏を取れず、Wikipediaだけに拠っている。

 

 かように、日本的自由主義個人主義)は、容共的であり、ひ弱い。それは、アタマでっかちで、《愛国心》が不足し、《国益》《国防》に鈍感だからである。