断章195

 古典古代とは、古代ギリシア・ローマ時代の総称である。この時代には、農業生産と交易の発展によって、自分の生計を維持するだけのために必要であるよりも多くのものを生産できるようになった。

 「より多くの労働力を給養する手段が存在していたし、これらの労働力を働かせるための手段もやはり存在していた。労働力はある“価値”を持つようになった。しかし、自分の共同体や、この共同体が属していた連合体は、自由に使える余分な労働力を供給してはくれなかった。他方、戦争がそれを供給した。そして、戦争は、いくつかの共同体群が同時に並んで存在するようになったそのときから、存在していた。それまでは、戦争の捕虜をどうしてよいかわからなかったから、捕虜はあっさり打ち殺されていた。もっと以前には、捕虜は食われたのである。

 ところが、経済がいま到達した段階では、捕虜はある価値を持つようになった。そこで、これを生かしておいてその労働力を利用するようになった。こうして、奴隷制が発明されたのである。奴隷制は、まもなく、古い共同体をこえて発展してきたすべての民族の間で支配的な生産形態になった。奴隷制によってはじめて、農業と工業との間のかなり大規模な分業が可能となり、それによって、古代世界の花であるギリシア文化が可能になった。奴隷制がなければギリシア国家もなくギリシアの芸術と科学もない。奴隷制がなければローマ帝国もない」(『反デューリング論』)。

 

 「今日私たちは、軍隊だけでなく社会全体を標的にして戦う戦争の形態である総力戦が、近代に始まったものだとする解説をしばしば目にする。総力戦が行われるようになった理由として、国民国家の出現や普遍主義イデオロギー、そして遠距離間での殺害を可能にする技術(引用者注:ミサイルや長距離爆撃機)などが挙げられる。だが、もしホメロスの記述が正確であるとすれば、古代ギリシアの戦争も現代の戦争に劣らぬ総力戦だったと言える。(中略)

 この時代の大量殺人とレイプの物語は、現代の戦争ドキュメンタリーの基準から見ても物騒きわまりない。ホメロスや彼の描いた人物たちは、たしかに戦争が浪費であることを嘆き悲しみはしつつも、ちょうど天気のように、それを避けられない人生の現実として受け入れている ―― 誰もが話題にはするが、どうにかすることができないものとして。(中略)

 慣習や権威への盲目的な追従こそ重要であり、それに比べれば人間の命などなんの価値もなかったのである」(『暴力の人類史』から抜粋・再構成)。

 

 「英雄時代のギリシアでは、戦争は彼らの日常生活の一部であった。軍が敗北すれば、兵士の家は取り壊され、生き残った成人男性は殺され、女性や子どもは陵辱され奴隷にされた」(『OODA LOOP』)。

 群雄割拠の絶え間ない戦争の時代だった。だから、ギリシアの男たちの主な創意や工夫は、正しい戦略や強力な軍隊を持つことに向いたのである。

 

 【参考】

 「現在、『奴隷』自体が存在しないため、奴隷がどのようなものか理解しにくいと思いますが、“言葉を理解する家畜”のようなものが、当時の感覚に近いでしょう。

 ・・・奴隷は動産、つまり物なので、例えば自由民Aが何か気に食わないことがあって自由民Bの奴隷を殺してしまった場合でも、AはBに賠償金を支払えば、罪に問われることはありませんでした。極端な言い方をすれば、『あなたの持ちものを壊しちゃった。弁償するね』という感覚です。奴隷の生殺与奪権は持ち主の主人にあるので、主人が納得すればそれでいいのです。

 ・・・しかし、逆のことが起きると大変でした。つまり、奴隷が自由民を殺してしまった場合です。これに関してはローマ法に規定があり、例えば奴隷が10人いて、主人がその10人の中の誰かに殺された場合、その10人の奴隷を全員処刑するとされているのです。そこには犯人を追及すると言うステップすらありません。それどころか、犯人が分かっている場合でも10人全員を処刑すると規定されていました。つまり、同法は、犯人がわからない時は全員連帯責任で殺してしまえ、という意味ではないのです。おそらく、ローマの初期にこうしたことが実際に何度も起きたのでしょう。そこで、再発を防ぐために、仲間の犯行を妨げなかった者も同罪であると同時に、主人に反感を抱く者がいた場合、情報がすばやく主人に伝わるように作られた規定と考えられます」(『はじめて読む人のローマ史1200年』)。

 

【補】

 「奴隷制とは、一般に人格を否認され所有の対象として他者に隷属し使役される人間つまり奴隷が、身分ないし階級として存在する社会制度である。

 抽象的にいえば生産力発達が他人の剰余労働搾取を可能とした段階以降の現象であり、始原的には共同体間に発生する戦争捕虜、被征服民に対する略奪・身分格下げ、共同体内部の階層分化、成員の処罰や売却、債務不払いなどが供給源であった。

 古くから一般に家長権のもとに家族の構成部分として家内労働に使役されたが(家父長制奴隷)、古代ギリシア古代ローマカルタゴでは鉱山業などの生産労働に私的、公的に大規模に使役された(労働奴隷)。奴隷制は自前の奴隷補給が困難であったため、古来、戦争による奴隷供給と奴隷商業の発達を不可欠とした。ローマ帝国では、パクス・ロマーナによる戦争奴隷の枯渇により、コロナートゥス(農奴制)への移行の一因となったともされる」(Wikipedia、2020/09/01現在)。

 

【参考】

 「奴隷になることは、社会において、ある人間 ―― 大体においては一人の人間 ―― との関係しか存在しない人間になるということである。そして、彼はその唯一の人間に隷属している、もしくは、より徹底したレベルにおいては、その人間に所有されているということである。社会において生きている以上、他の人間は存在する。だが、他の人間は、彼に何の権利も義務も負わないし、また奴隷である彼も、彼が隷属している、もしくは彼を所有している主人以外の人間に対し主人を通した関係しか持ちえないのである。まさに彼は、(自分の)社会的諸関係の網の目から剥ぎ取られてしまったという意味で、社会的に死んだ人間なのである。奴隷は外から、掠奪されたり、誘拐されたり、購入されたり、或いは戦争の捕虜として、主人の社会に投げ込まれるが、それは同時に、奴隷が生れ育った土地の社会的諸関係の網の目から剥ぎ取られる過程でもある。フィンレイが『奴隷が異邦人であること』を強調したように、奴隷は本質的にその社会にとってアウトサイダーなのである。ここから、奴隷である彼が、何故私の身内になりうるか、あるいは私の従者になりうるかがよく理解できるはずである。もとの関わりから引き離され、自分との関わりしか持ちえない以上、彼は私以外の他人と生きるすべをもたない。彼が私に隷属している以上、逃亡するか自殺するか以外に、私の望む生き方しか、とりようがない。そして、奴隷制を持つ社会は、そのような私と奴隷の関係を合法的なものとして認め、私の奴隷に対する権利の行使は、慣習や法によって保護される、ということになる。彼らが交換されたり、売買されたり、あるいは生賛とされたり、恣意的な懲罰を受けたり、時には殺されたりするのも、主人以外の人間と関わりを持たないからである。社会的関わりを持たない、社会的に死んだ人間であるからである。奴隷はよく家畜になぞらえられるが、確かに家畜が主人から如何に手ひどい扱いを受けていたとしても、他人は口出しできない。それは家畜が人間ではない以上、社会的な関わりを持たないからである。奴隷もまた、主人から手ひどい扱いを受けたとしても他人がそれを阻止することはできない。それは奴隷が社会的な関りを剥ぎ取られ、主人との関わりしか持たない以上、彼を主人の恣意から守ることは誰にもできないからである。奴隷がたった一人にしか関係を持たないこと、そしてたった一人に隷属しているということが、権威や権力を求める野心ある人々にとって、奴隷をとてつもなく魅力的なものにしている。奴隷が如何に有能であっても、彼には世襲貴族のように誇るべき家柄もなければ、出世した彼を通して権勢を振るおうとする父母も叔父や叔母も、そして当然一族の長老もいない。奴隷が持っているものは皆、主人である王が与えたものである以上、彼がたとえ解放され、家族や養子を持ち、それらを出世させたところで、もともとそれらはすべて王が与えたものである以上、王は自由にそれを回収することができる。 主人による解放とは尽きせぬ恩恵である。その恩に解放奴隷は、終生をかけて報いなければならない(奴隷の解放に関するパターソン(2001)の議論 ―― モースの贈与交換をベースとしている ―― も示唆に富んでいる)。それゆえ、王は王族や貴族、或いは伝統ある官僚層に代わって、自らが解放した奴隷を高位につけ、彼らを通して権力を思うままに振るうことができる。王以外に奴隷や解放奴隷をコントロールできるものはいないからである。アジア的な社会において、・・・奴隷出身者が宰相などの様々な活躍」(福本  勝清)をした理由がそこにある。