断章207

 「現在は過去の集積に他ならない。過去に目を向けることで現在を理解することが可能になる」。

 

 「封建制とは、君主の下にいる諸侯たちが土地を領有してその土地の人民を統治する社会・政治制度である。諸侯たちは、領有統治権のかわりに君主に対して貢納や軍事奉仕などといった臣従が義務づけられ、領有統治権や臣従義務は一般に世襲される。

 フューダリズム(Feudalism)とは歴史学において中世北西部欧州社会特有の支配形態を指した用語であり、『封建制』と訳される。土地と軍事的な奉仕を媒介とした教皇・皇帝・国王・領主・家臣の間の契約に基づく緩やかな主従関係により形成される分権的社会制度で、近世以降の中央集権制を基盤とした主権国家絶対王政の台頭の中で解消した。

 古ゲルマン人社会の従士制度(軍事的奉仕)と、ローマ帝国末期の恩貸地制度(土地の保護)に起源を見いだし、これらが結びつき成立したと説明されることが多い。国王が諸侯に領地の保護(防衛)をする代償に忠誠を誓わせ、諸侯も同様の事を臣下たる騎士に約束し、忠誠を誓わせるという制度である。この主従関係は騎士道物語などのイメージから誠実で奉仕的な物と考えられがちだが、実際にはお互いの契約を前提とした現実的なもので、また両者の関係が双務的であった事もあり、主君が臣下の保護を怠ったりした場合は短期間で両者の関係が解消されるケースも珍しくなかった。

 更に『臣下の臣下は臣下でない』という語に示されるように、直接に主従関係を結んでいなければ『臣下の臣下』は『主君の主君』に対して主従関係を形成しなかった為、複雑な権力構造が形成された。これは中世西欧社会が極めて非中央集権的な社会となる要因となった(封建的無秩序)。

 西欧中世においては、外民族のあいつぐ侵入に苦しめられた。そのため、本来なら一代限りの契約であった主従関係が、次第に世襲化・固定化されていくようになった。こうして、農奴制とフューダリズムを土台とした西欧封建社会が成熟していった」(Wikipedia、2020/10/02現在)。

 

 「アジア的古代および古典古代においては、階級抑圧の支配的な形態は奴隷制、すなわち大衆から土地を収奪することよりもむしろ、彼らのからだを領有することであった。……中世においては、封建的な抑圧の源泉となったのは、人民から土地を収奪することではなくて、反対に土地にしばりつけて人民を領有することであった。農民は自分の土地をもっていたが、農奴または隷農として土地に緊縛されたし、また年貢を労働または生産物のかたちで領主におさめる義務をおわされた」(エンゲルス)。

 

 農奴は奴隷ではない。「それは奴隷が主人から殺される可能性があるのに対して、領主によって殺されることはないから、ではない。農奴は社会的諸関係から(引用者注:奴隷のように自分の共同体から)引き剥がされた人々ではない。彼らの身分は、その初期には引き続き奴隷と呼ばれたりしたかもしれないが、農奴は現地に生まれ育ち、生産手段を保有し、かつ家族及び親族組織を持ち、コミュニティに属する直接生産者であった。彼は、彼の人身を支配する領主と、彼の耕地を所有する領主と、同時に二人の領主を持つことができた。村落に幾つかの所領や荘園が入り組んで存在していた場合、彼が複数の耕地を持つならば、彼はその耕地を通じて同時に二人以上の領主と主従関係を結ぶことが可能であった。さらに、彼は土地の教会で洗礼を受けることによって、教会とも正規の関わりを結ぶことができた。コミュニティが村落共同体に組織されていた場合、彼らは村落を背景に領主層とバーゲニング(引用者注:交渉過程において交換可能なものを探すこと)を繰り返すことが可能であった。さらには、村落が幾つかの荘園や所領に分割されていることを利用して、村落に利害関係を持つ領主を競わせることもできたし、隣接した村落が連合し、より大きな領主とも対抗することも可能であった。このような農奴の日常闘争は、主人との関わりしか持たない奴隷には思いもよらないことであったであろう」(福本 勝清)。

 

 「日本史においては、一般に鎌倉時代から明治維新までの武家支配時代を封建時代と呼ぶ。上代の班田制の崩壊、荘園制の一般化によって、平安時代中期頃に成立したと考えられており、鎌倉時代室町時代は中世封建制社会(封建社会前期)、江戸時代は近世封建制社会(封建社会後期)に分類されている」(Wikipedia)。

 

 「日本では約1,000年、武士の時代が続き、現在の非武士の時代はまだ150年しかやっていない。だから武士の時代、とりわけ、兵農分離後の江戸武士社会300年の影響が、現在に色濃く残っていると考えるのが普通で、現代日本社会の原点はまぎれもなく江戸の武士社会のなかにも読み解くヒントがある。(中略)

 近世武士が登場するきっかけを作ったのは、火縄銃出現による戦術の変化であった。・・・火縄銃が使われるようになった戦場では、集団でひとかたまりとなり、その中心に主君をおき、密集軍団で突撃する戦法をとることが有利となる。いわば最前列が盾になり後陣が攻め込む戦法で、この戦法は、数分に1発しか撃てず有効射程150メートルの火縄銃相手だからこそ効果的となる。こうした戦法を得意とするのが濃尾平野の武士たちであった。かくして、濃尾平野から信長、秀吉、家康という天下を争うリーダーたちが生まれている。

 ・・・この戦法は、すぐ逃げ出す中世武士団では成立しない。体を張って主君を守る家来がいないと実現不可能となる。そこで主君は、家来に、もし死んでも、『遺族には、子々孫々まで家名と土地を保証する』ことで体を張らせた。これが譜代の家臣の成立である。(中略)

 子々孫々まで家名と土地が併せて保証されるということは、裏を返せば、へたに冒険して失敗をすると、その権利を剥奪され、子々孫々まで影響が出ることを意味する。武士たちは、・・・保身ばかりに考えがゆき、決められた仕事以外はしなくなった。頑張っても、先祖の働きで谷高は決まっているからあまり努力もしなくなったといってよい。横並び意識が強くなり、失敗しないために前例を重視するようになった。現代日本の組織伝統はこの流れを汲んでいる面がある。つまり、大失敗や巨額の不正はしない代わりに、新しいことや積極的な仕事はしない。江戸時代のこの構造は、それまでに自分が携わっている仕事以外は、全く何もできない武士を創りあげた。(中略)

 ・・・しかし、九州と東北では兵農分離が進まず、武士が領民と同じように働いていた。

 (江戸などで主流の)形式にとらわれた武士と、何事も実質に添い行動に移す武士、この違いが幕末にも影響し、実際、兵農未分離の九州と東北が戦える武士で戊辰戦争士族反乱はこの地域で起きた」(『日本史の探偵手帳』 磯田 道史)。