断章208

 封建的生産様式とは、封建領主層が直接的生産者である農奴の剰余を「経済外的強制」によって収奪する生産様式である。

 この「経済外的強制とは、たとえば、封建領主が農奴から封建地代を収奪するなど、富の移転が当人の自由意思(他者の所持する何かと交換したいなどの)によらずになされる際に、発動される強制力(実力)を意味します。それは、近代的な観念で前近代の経済を把握しようとする際に用いられた言葉で、強制や、不自由や、暗黒のイメージを帯びています。しかし、前近代の人々はそれが必ず、いまの私たちが感ずるのと同様な『強制』や『不自由』と受けとめられていたわけではなく、あくまで掟(おきて)・定(さだめ)・分(ぶん)・矩(のり)やしきたりとして認識されていました。前近代の人々がそうした掟に、ときに不満を抱くことがあったとしても、それは是非を超えた掟(『御上の沙汰は是非もなし』)であって、その意味で、前近代社会とは疑われざる規範の体系だったのです」(『経済史』小野塚 知二)。

 

 「封建制の下で収奪された剰余を封建地代と総称します。封建地代の最も原初的な形態は、領主直営地での賦役(労働地代)です。賦役制の場合、農奴は1週間/1年間のうち決まった日数は領主直営地で働くという日ぎめの奴隷であり、それ以外の日は、農奴は自分の保有地で働く経営主体でした。しかし、領主直営地と農奴保有地での労働生産性に大きな差がある(領主直営地で懸命に働いても成果は全て領主に収奪されるから労働意欲は低く、自己保有地の収穫はわがものとなるので労働意欲が高くなる ―― 引用者注:旧ソ連の集団農場と同じである)ことに気づいた領主は、農奴を監督する手間のかかる直営地経営=賦役制をやめ、すべての耕地・牧地を農奴に分割保有させることになります。・・・すべての耕地・牧地が直接的生産者である農奴の個人的所有の対象となったのです。これに対応して登場した封建地代形態が生産物地代で、近世日本の年貢はこれに相当します」(前掲書)。

 

 「11世紀の後半から、ヨーロッパ世界では外敵の侵入も終わり、封建社会の仕組みが出来上がって、社会の安定期を迎えた。あわせて気候の温暖化という自然条件にも恵まれた。三圃制農業の普及(他にも『中世農業革命』とも呼ばれる一連の農業技術の革新)などは、穀物の収穫高を、およそ3~4倍向上させ、農民の可処分所得を増大させ、またブドウなどの商品作物の栽培も可能にして、多角的な農業が展開されるようになった。

 こうした生産力の発展を背景として、人口は増加し、人口の増加は耕地の拡大をもたらした。11世紀後半から13世紀前半までの約2世紀間は、大開墾時代といわれ、森林や原野が開かれ、低湿地は埋め立てられていった。この時期以降は、封建社会のあり方もそれ以前の前期封建社会に対し、後期封建社会として区分される。

 さらに生産力の発展は、封建社会の農業中心の自給自足経済のあり方を変え、商工業を発展させ、貨幣経済を復興させることとなる。それが東方貿易(レヴァント貿易)を盛んにさせ、商業の復活(商業ルネサンス)といわれる状況につながった。

 また、ヨーロッパの人口増加は、その周辺への進出や植民の運動を引き起こした。11世紀末に始まる十字軍運動や、同じ時代に展開されるドイツ人の東方植民、イベリア半島でのレコンキスタ、オランダの干拓などの動きがそれである。またキリスト教徒の巡礼が盛んになったこともその運動の一面であった」(WEB『世界史の窓』を抜粋・再構成)。

 

 7、8回におよんだ「十字軍」遠征の失敗とペストの猛威(欧州人口の3分の1が失われた)から「信者を守れなかった」カトリック教会の権威の失墜、また「十字軍」運動の敗北による封建領主たちの疲弊があって、封建制は動揺した。

 「中世末期14世紀のヨーロッパでは、ペストの大流行で欧州人口の3分の1の住民が病死した。荘園で働いていた農奴も多数亡くなり、荘園は深刻な働き手不足に陥った。ウイルス研究者の加藤茂孝氏によると、イギリスでは労働者不足に対処するため、エドワード3世が賃金を固定する勅令を定めた。労働集約的な穀物の栽培から人手の要らない羊の放牧への転換が進んだという。

 数が少なくなった農業の働き手は農奴の身分から小作農という新階層に変わっていった。農奴は都市に逃げ込めば自由になれた。封建領主によってがんじがらめにされていた農民は完全ではないにしろ人間性を回復できた。人口減少はイタリアの都市国家をはじめとする欧州各国にルネサンス(文芸復興)をもたらすとともに、中世のシステム全般を崩壊させていった。

 もちろん、物事はすべてが楽観的に進むわけではない。ルネサンスの後に現れたのは絶対君主制だった。イタリアの都市国家絶対君主制国家に敗れて衰退した。西欧では封建領主の力は弱まったが、君主や国家権力の力はかえって強まった。本格的な市民社会の到来は18世紀以降に持ち越された」(『中国 人口減少の真実』)。