断章211

 「読み書きと基礎的算術への全般的到達、次いで中等・高等教育のテイクオフは、全体として、〈歴史〉の本質的基軸のひとつをなすということは、認めなければならない。大文字の〈人間〉なるものについての理論的考察を行なっても、〈人間〉とは何かの理解を先に進ませてくれはしない。ここにおいて、人間とは何かを教えてくれるのは、〈歴史〉そのものである」(E・トッド)。

 

 前述の“危機の17世紀”は、同時に、「14世紀に始まったルネサンスや16世紀の宗教改革など、多くの変化が数百年をかけて、着実に人々の意識を変え始めていたのです ―― 1439年頃に、グーテンベルクが金属活字を使った印刷術を発明したことで印刷革命が始まり、それが一般に中世で最も重要な出来事の1つとされている。活版印刷ルネサンス宗教改革、啓蒙時代、科学革命の発展に寄与した。

 そのような意識の変化の積み重ねに加えて、社会情勢の悪化が引き金となり、従来の常識を解体する科学的な変革が起こりました。それが『科学革命』です。

 17世紀には今も名が知れ渡っている多くの科学者、哲学者が、画期的な研究成果を発表しています。有名なところでは、以下の人物が挙げられるでしょう。

 ニコラス・コペルニクスに始まる地動説を理論面で実証したヨハネス・ケプラー。天体観測によって地動説を証明したガリレオ・ガリレイ万有引力の法則を発見し、近代科学に大きな影響を与えたアイザック・ニュートン。合理主義哲学を生み出したルネ・デカルト。いずれも後世の科学に大きな影響を与えた学者です。

 これら研究の共通点は、従来の神学や宗教的世界観を前提とせず、あくまでも実験や観察に基づいたデータの分析と、数学を用いた論理追求の結果だったことです。実験や観測による研究と理論の組み立ては、現在で考えれば当たり前のように思えますが、17世紀当時では一般的な常識を解体するほどの変革でした。

 当然反発も少なくありません。たとえば、ガリレオは地動説の証明によってローマ教皇庁から異端扱いされ、宗教裁判によって有罪判決を受けています。1633年に下った判決は、約350年も経った1984年になってやっと無罪が証明され、名誉回復が行われたほどです。

 このような既存概念の反発を受けつつも科学の発達が進んだのは、ルネサンス大航海時代の到来によって、ヨーロッパ社会の世界観が大きく開かれていったからでした。

 アジアやアメリカ大陸からもたらされる新しい文化と物資によって、世界観が少しずつ変化していきました。そこに経済の低迷や凶作、反乱などさまざまな困難が襲ってきた結果、人々は新しいものの見方や考え方を求めたのです。科学者や思想家は真理を求める欲求に加えて、世界を変える使命感に突き動かされたのかもしれません。表面の反発はありつつも、多くの理論や発見が社会に受け入れられ、近代科学へと発展していくことになります。

 このように、17世紀に行われた科学革命はそれまでの社会から異端視されるほどの出来事でした。しかし、同時にそれまでの既存概念から解き放たれ、多くの発見をもたらすことになったのです。そしてその実証と論理に基づく科学論は、18世紀の産業革命のような爆発的な技術発展につながっていきます。科学力と技術力の高度化は、ヨーロッパ諸国が全世界をリードする基盤となっていったのです。

 科学革命は科学だけでなく中世までの意識そのものを『解体』し、近代社会を『創造』するパワーの一つになったといえるでしょう」(リバイブHPから引用・紹介)。

 

 「コンドルセのような啓蒙思想家たち、デュルケムのような19世紀末の社会学者たちは、教育の発達を自律的で第一義的な変数と考えていた。〈歴史〉の中を〈精神〉が前進するという壮大なヘーゲル的ビジョンは、ことさら必要ではなく、経験的なやり方で観察するだけで、識字化のテイクオフが工業化のそれより前に起こったことが見て取れたのである。読み書き計算を習得する社会集団が、ますます増大していくということが、18世紀・ 19世紀の人間に、歴史の推進力とは、知的な面で上昇することができる人間の能力であることを明快に指し示していた。彼らには、経済的発展は、教育水準の上昇の論理的帰結であると見えた」(E・トッド)。

 

 トッドに言わせれば、「識字化(つまり識字率の上昇)とは人類の発展の推進力であり、同時に発展の尺度でもある。経済的発展は、識字化の進展の結果であって、決してその原因ではない。

 ・ ・ ・読み書き能力を身に付けると、人々は個人としての自意識に目覚め、伝統的慣習に疑問を抱くようになる。そこで識字率がある水準を超える、つまり多数の住民が識字化されると、平穏な前近代との決別、すなわち近代化が始まる」(『デモクラシー以後』・訳者解説)。

 

【参考】

 「カトリックの社会では、『聖書』を読むのは司祭の仕事であり、逆に一般住民は文字を読んではいけないとされていた。だから『聖書』は教会に置いておくものであり、家へもって帰ってはいけなかった。これが識字率に大きく関係してきて、南欧カトリック地帯では、識字率が高くなるのがずっと遅れた。現に私が1960年代にポルトガルへ行ったときも、ポルトガルのおとなの識字率は50%から60%だった。当然読めるだろうと思って書いても、読めない人がけっこういた」(速水 融)。