断章212

 「産業革命は、なぜ他の国ではなくイギリスで起こったのか」という問いに対する回答のひとつは、「イギリスは(他国に比べれば)高賃金でかつエネルギー価格が低かったから」である。

 というのは、すでにイギリスの農村ではペスト禍による人口減少から耕作地を牧草地に転換し、羊の飼料改善を行ったことで毛織物産業が発達した。その後も農法の改良を進めて農業生産が増大したので、『農地囲い込み』が可能になり、『民富』が増大した。

 さらに、「スペイン、オランダを経済・戦争で圧倒して大西洋の覇権を手に入れ、貿易で富を得た17世紀末にはバンク・オブ・イングランドが設立され、18世紀に入ると『産業革命』を待たずに英国は大運河時代に突入する。そこにはすでに馬では運びきれないほどの『生産力』があり、馬に代わる流通網として運河を築くだけの『資金』蓄積もなされ、運河に沿って活発な『商業』活動が繰り広げられ、『国富』の拡大蓄積があった。『国富』『民富』の拡大蓄積によって都市が発展し、農村から労働者を引き寄せた。

 ロンドンの熟練労働者は(相対的に)高賃金だったので、機械の発明・利用による労働者削減に大きなインセンティブが働いたのである。賃金が高く、エネルギー価格(石炭)が安かったから、労働者を機械に置き換えるという方向への発展が起きたのである(必要は発明の母である)。

 こうして、生産は工場制手工業(マニュファクチュア)から『機械制大工業』に、さらにそこに18世紀終盤からワットの蒸気機関が加わり、19世紀中盤からはそれを応用した鉄道や蒸気船などの『交通革命』も加わったことで、より幅広く、よりパワフルに、より全産業的に、『産業革命』は広まっていったのである」(以上、『世界史のなかの産業革命』へのアマゾンレビューなどを参照)。

 

 一方、E・トッドの知見では、「イングランドが最初の資本主義国になったのは、(イングランドアメリカ型の絶対核家族という)金銭を媒介とする相続という慣習の影響で、農地からの離脱が容易だったから」であり、「こうした家族類型から導き出される『自由』と『競争』、『差異主義』という原理が、資本主義経済を下支えすることにつながるわけです。

 あくまで個人が優先されるため、個人の金儲けの自由、自分と他人とは違うという差異主義、損得勘定が第一義とされます。儲けたお金を投資するのも自由という考え方は、株式会社というシステムを誕生させます。イギリスの産業革命アメリカの発展を促したのも、『自由』と『競争』と『差異主義』の精神」によるのである。

 鍵となったのは、「1707年に、イングランドスコットランドが同君連合を組み、グレート・ブリテン王国 = イギリスを成立させたことです。トッドは、スコットランドという直系家族の地域に蓄えられた知識が、イングランドに大きく寄与したと見ています。直系家族は、長男の嫁をキーパーソンにして、知識の蓄積、継承が行われやすい家族形態です。そうした直系家族で育まれたスコットランドの知性には、哲学のヒューム、トマス・リード、経済学のアダム・スミスらの『スコットランド啓蒙』と総称される知識人たち、および蒸気機関のジェームズ・ワット。また後の、電話のグラハム・ベルペニシリンのフレミング、ゴムタイヤのダンロップなど偉大な発明家・・・枚挙にいとまがありません。つまり、同君連合でグレート・ブリテンを成立させたことで、スコットランドの直系家族の知性と(イングランドの)絶対核家族の自由、独立、競争の冒険精神が結合して偉大なるイギリスの18世紀を用意したのであり、もし、どちらかが欠けていたとしたら、18世紀はイギリスの世紀とはならなかった」とみる。

 「家から早く独立し、親子関係もドライだという『絶対核家族』の指向が、工場労働者の大量供給を後押ししました。逆の見方をすれば、賃金労働の拡大が、イングランドの絶対核家族化を加速させたとも言えます」(以上、鹿島 茂を参照)。

 

 知識・思想、宗教、法などの精神的世界。経済、制度、技術などの社会的基盤。地理、気候、資源などの自然的条件。こうした精神、社会、自然の三重構造は、相互に作用(規定)しあい相互浸透しながら、この現実を創りあげ変えていく(わたしたちにとって良い方向に、とは限らない)。