断章218

 日本共産党は、共産主義マルクス主義)のもたらした“惨禍”の原因を、スターリンや毛 沢東の個人的性格や生産力の低さに還元して、もう決着済の終わった話にしている。そして、相変わらず、共産主義マルクス主義)という“ドグマ”を信奉している。1991年のソ連崩壊から30年という時間による忘却が、彼らを助ける。

 

 一部の「知識人」リベラルが、また日本共産党の片棒を担いで騒いでいる。彼らは、戦後の日本の平和と安定から恩恵を受けたにもかかわらず、日本に貢献する気のないフリーライダー(ただ乗り)として、日本共産党の“同類”である。

 彼らは、1991年のモスクワのエピソード ―― 当時、モスクワにあった「万国の労働者よ、団結せよ」と記された銘板に、「共産主義に反対して」と市民が加筆 ―― の“重さ”を無視する、〈知〉に対して不誠実な“二流”インテリである。

 

 〈知〉に対して誠実であろうとすれば・・・、

 「『資本主義』という言葉を、これまでわたしはできるだけ使わないようにしていた。『資本主義』という言葉には、あらかじめ否定的なニュアンスが塗り込められているように感じていたからである。これは多かれ少なかれ、マルクス主義的・左翼的雰囲気の中で学生時代を過ごした記憶のなごりであったのかもしれない。この記憶のなかでは、資本主義的とかブルジョワ的とかという言葉は、一種の罵倒語であり、ほとんど悪人的あるいは犯罪的というのと同義語であった。

 一般的にいっても、資本主義という言葉を好んで口にするのは、マルクス主義者であり、やはり否定的なニュアンスが強い。あるいはそうでなくとも、社会主義との対比としていわれることが多い。

 しかも、現代社会は『資本主義社会』だといわれる。そうすると、『資本主義』に塗り込められた否定的なニュアンスは、そのままそっくり現代社会にまで移しかえられてしまう。日本やアメリカのような社会は、トータルに批判されるべき社会だというインプリケーション(言外の意味)がうまれてくる。

 これでは、現代社会の持つ複雑性、多様性はとても理解できない。

 資本主義社会というような言い方で、あらかじめある種の色をつけてしまったり、議論の方向を誘導してしまったりということでは、とてもではないが我々の生きている社会を理解することはできないだろう。これは、端的にずさんな言葉の使い方だともいえるし、あるいはきわめて巧妙なイデオロギーの操作だともいえるのだ」(佐伯 啓思)という視角を欠いてはならない。

 

 さらに言えば・・・、

 「いま、もし、資本主義社会は最適の社会ではないと考えるのなら、まず第1に、かつてマルクスエンゲルスが19世紀中葉の資本主義社会を論じたのと同程度に透徹した仕方で、21世紀の資本主義を、そこに含まれている問題や矛盾とともに捉え直し、その上で、第2に、資本主義とは異なる理想(ないし資本主義のよりましなあり方)を明晰に提示し、第3に、現状からそこにいたる変革の戦略を実際的に示すという3つのこと(これまでの社会主義者共産主義者も達成できなかったこと)をしなければならない」(『経済史』小野塚 知二)のである。

 

 そして、わたしは付け加えて言おう。これまで誰ひとりとして達成できなかっただけではない。これからも誰ひとりとして決して達成できないだろう。なぜなら、“共産主義”とはミラージュだから。

 「近づいたら ふいに消えてしまった 目指して来たのに どこへ行った? あの夢」(「ミラージュ」♪ 乃木坂46)。