断章221

 「19世紀末から第一次世界大戦勃発まで繁栄した第一のグローバル経済。その時期の欧米先進国は、欲望を人為的に維持する介入的自由主義によって安定的に成長する路線を、少なくとも国内的には歩み始めていました。(中略)

 第一次世界大戦によって、この第一のグローバル経済が破壊されてしまったあとの、分断されて不安定かつ不均衡な時代しか知らない者にとっては想像もしにくいことですが、この第一のグローバル経済では世界の各国・各地域がきわめて密接に結びつき、奇跡的ともいうべき円滑で円満で循環的な関係を生み出していました。物財の貿易、資本の輸出入、人の移動・移住はいずれもほとんど何の障壁もなくなされ、世界各地の経済は、植民地も含めて、きわめて順調に成長し続けていました。しかも、世界の貿易・海運・金融・保険を安定的に成り立たせるために世界は海底電信網で結びつけられ、各地の情報は現在と同様に瞬時に世界の人びとの間に行き渡っていました。(中略)

 しかし、経済がますますグローバル化するということ、言い換えるなら、国際分業がますます深化するということは、リカードの説に従うなら、貿易に参加するどの国もますます富み栄えることを意味しますが、それは同時に、どの国も比較優位業種に特化し、比較劣位業種を捨てることを意味します。つまり、国際分業が深化し、かつ国内のすべての業種・地域が繁栄するということは論理的にありえず、どの国も、比較劣位業種とそれが立地する地域は衰退せざるをえないという苦難を経験しました。また、比較優位を得るためにダンピング(国内の高価格で外国向けの低価格輸出を可能にすること)など過剰な価格競争に陥ることで、輸出産業でさえ苦難を経験しました。こうして、国際分業の深化にともなって、どの国も、繁栄の中の苦難を内側に抱え込むことになります。全体として世界経済も自国経済も繁栄傾向にあるのに、なぜ、自分の業種・地域は苦難を味わわなければならないのかという問いは、殊に有権者が増え、民主化言論の自由が増進している状況では、多くの人びとを納得させる何らかの答えないしは解釈を必要としました。

 しかし、第一のグローバル経済を肯定的に捉える自由貿易賛美論者は、グローバル経済の円満な発展ゆえに、今や国境も関税も意味を失った過去の幻影に過ぎず、まして戦争など起こるはずもないと楽観的に考える自由主義的な平和主義を唱えました。彼らは世界経済全体の繁栄を賛美することはしましたが、そのことは逆に、繁栄の中で必然的に各業種・各地に発生せざるをえなかった苦難の原因を明らかにするのを怠り、またそうした苦難への対処も怠るという特徴的な態度も示していました。こうした自由貿易賛美論は、実際に苦難を経験している人びとにとっては、それこそが幻影の妄論にすぎず、彼らはむしろ、諸種の保護主義ナショナリズムに魅了されるようになったのです。(中略)

 保護主義への転換は相手国の心理に影響を与え、相互に敵意や不信感を醸成する原因となりました。

 19世紀末以降のイギリスでは、自国市場にドイツ製品が氾濫しているという『ドイツの(経済的)侵略』という認識が作用しており、E ・ E ・ウィリアムズが1896年に発表したパンフレット『ドイツ製』によって、イギリス産業がドイツ製品の進出によって苦境に追いやられているとの言説が広がります。比較劣位で構造不況に陥った金属加工業や小間物製造、印刷などの業種とその立地地域では、ドイツの不公正貿易によって、イギリスが当然享受すべき利益が損なわれているとの認識が徐々に強まったのです」(小野塚 知二『経済史』から引用・紹介)。

 

 そうした煮詰まりの結果、「7千万人以上の軍人(うちヨーロッパ人は6千万)が動員され、技術革新と塹壕戦による戦線の膠着で死亡率が大幅に上昇し、ジェノサイドの犠牲者を含めた戦闘員900万人以上と非戦闘員700万人以上が死亡し、史上最大の戦争の一つとなった第一次世界大戦が勃発した。この戦争は多くの参戦国において革命や帝国の解体といった政治変革を引き起こした。終戦後も参戦国の間に対立関係が残り、その結果わずか21年後の1939年には第二次世界大戦が勃発した」(Wikipedia)。 

 ―― 19世紀のイギリスとドイツ。21世紀のアメリカと中国。さて・・・