断章224

 「歴史をみてわかるのは、宗教はいくつもの命をもち、繰り返し復活するということである。神と宗教は、過去に何度死と再生を経験したことか」(『歴史の大局を見渡す』)。

 

 例えば、キリスト教について言えば、「ローマ皇帝コンスタンティヌスキリスト教に改宗するまでの300年間に、多神教徒のローマ皇帝キリスト教徒の全般的な迫害を行ったのはわずか4回だった。地方の管理者や総督は独自に、反キリスト教の暴力をいくらか煽った。それでも、こうした迫害の犠牲者を合計したところで、この3世紀間に多神教のローマ人が殺害したキリスト教徒は数千人止まりだった。これとは対照的に、その後の1500年間に、キリスト教徒は愛と思いやりを説くこの宗教のわずかに異なる解釈を守るために、同じキリスト教徒を何百万人も殺害した。16世紀と17世紀にヨーロッパ中で猛威を振るったカトリック教徒とプロテスタント(新教徒)との宗教戦争は、とりわけ悪名が高」(『サピエンス全史』)かった。

 

 それでも、「1801年、歴史に精通したナポレオンはピウス7世と政教条約を結び、フランスとカトリック教会の関係を修復した。18世紀のイギリスは無宗教だったが、ヴィクトリア朝に入るとキリスト教と和解した。国が教会の上に立ち、教会区司祭は大地主に従属するという暗黙の了解のもと、国は国教会を支えることに同意し、知識階級は懐疑的態度を控えることにした。アメリカでは19世紀に信仰復興運動が起き、建国の父の合理主義が信仰に変わった。

 厳格主義と快楽主義(気持ちや欲望の抑圧と表出)は歴史の中で交互に生じている。一般的に法の力が弱くモラルによって社会秩序を維持しなければならないとき、宗教と厳格主義が勢いを得る。一方、法と政治が力を増し、教会、家庭、モラルの力が社会の安定を脅かさない程度に落ちるとき、懐疑主義と快楽主義が広がる。

 現在は国が力を得、信仰心とモラルが低下していることから、快楽主義が幅を利かせている。そして、おそらくこれが行き過ぎると、また別の反応が生まれるのだろう。モラルの乱れが信仰を復活させるのだ。無神論者は(1870年以降のフランスでみられたように)、子供を再びカトリック系の学校に送って信仰心を身につけさせるかもしれない」と、ウィル・デュラントは言う。

 

 朝、元気に出勤した夫が、火災現場のバックドラフトで殉職する。お友達との会食と買い物を楽しみに街に出かけた娘が、自殺の巻き添えで亡くなる。この世は、無常であり不条理である。ならば、宗教が死んでしまうことはない。

 

 では、マルクス主義はどうだろうか。

 マルクス主義もまた、「人民の敵」「帝国主義のスパイ」「反階級的脱落者」と見做(みな)した者たちを処刑して集団墓地に大量に投げ捨てたが、今日なお命脈を保っている。

 旧ソ連圏、「北朝鮮」、「ポル・ポト民主カンプチア」、「ベネズエラ」、「中国」の現実を知った後でも、「果たせなかった約束 またひとつ増えただけ それでも明日を夢見」(♪『夢の続き』)て、マルクス主義を信じ続けるインテリたちがいる。

 

 それは、第一に、宗教が人間=社会の普遍本質に根拠をもつように、マルクスの知見も現代資本制社会に根拠を置いているので、現代世界の解剖学として役立つからである(但し、解剖学を知っても手術ができるわけではない)。

 第二に、インテリは“全能の体系”を自称するイデオロギー・思想が大好きだからである。

 第三に、共産主義(地上の楽園)はインテリたちの見果てぬ夢だからである。

 

 日本のインテリは、マルクス主義の“ドグマ”によって、おのれ自らをデラシネ ―― フランス語で根なし草、転じて故郷や祖国から離れた、もしくは切り離された人を意味する ―― にした人たちである。故郷や祖国に帰る道を見失っているのだ。

 「人生でいちばん苦痛なことは、夢から醒めて、行くべき道がないこと」(魯 迅)である。だから今なお、マルクス主義に、共産主義の夢を見続けることに固執しているのである。