断章240

 「20歳だろうと80歳だろうと、学ぶことをやめた者は老人である」(ヘンリー・フォード)。

 

 ネトウヨは、高学歴のリベラルなお利口さんたちから、「低学歴のアタマ悪い馬鹿だよね」と言われている。

 確かに。わたしについては、そのとおりである。中学3年生のとき、山本 周五郎の『五瓣の椿』を読み、なにかこう“ギューッと心臓をつかまれた”ような気持になって、友だちにも“凄い”から読むように薦めたのだが、どう“凄い”かをまるっきり説明できなくて、まったく興味を持ってもらえなかったという苦い記憶がある。読解力・思考力・表現力に難があるのである。学問に限らず、人間の営為には、「平坦な大道はありません。険しい坂道をよじのぼる労苦をいとわないものだけが、明るい頂上にたどりつく見込みがある」から、死ぬまでは頑張りたいものだ。

 

 「資本主義」という“用語”は、日本の「左翼」インテリにとって単なる決まり文句として役立っており、彼らは何かにつけてこの「レッテル」を貼り付け、それで問題が片付いたことにしている。それ以上に思考を深めようとはしない。なので、日本の「左翼」インテリは、いつまでたっても欧米のインテリたちの下風に立って後塵を拝することになるのである。

 

 「資本主義」を否定した先には、「暴力革命」「プロレタリアート独裁」「共産主義」という、彼らが ―― 「ディクタツーラ」だの「執権」だの「アソシエーション」と言い換えて ―― 曖昧なままにしておきたい、あるいは隠しておきたい問題が待ち構えている。しかし、毛 沢東をもじって言えば、「革命とは、気の抜けたマルクス講釈本を書くことではないし、議会で多数派になることでもない。革命とは、一つの階級が他の階級をうち倒す、激烈な行動なのである」。実際、これまでの世界中の共産党(労働者党)の“スローガン”は、勤労大衆を欺瞞するものだったのである(実は、マルクスその人にも背くものだった)。

 

 日本の「左翼」は、マルクスを様々に解釈してきただけである。肝心なのは、それを変革することである。(んっ、どこかで聞いたな)