断章248

 オスカー・ワイルドが、「ほとんどの人々は他の人々である。彼らの思考は誰かの意見、彼らの人生は模倣、そして彼らの情熱は引用である」と言うとき、その言葉は、わたしを刺す。痛い。

 100回読むに値する「古典」、日本刀のように鍛え抜かれた「思想」をたずね求めて三千里。手探りの旅は続く・・・。巷間に流布しているものは、ほとんどが刃引された「なまくら刀」だからである。

 

 例えば、「私の言うコミュニズムとは、資本主義が壊してきた“コモン”の領域を再び構築していくコモン主義。“コモン”とは、水や電気や食料、医療など誰もが必要とする、みんなのための財産です。例えば、水道が日本でも民営化されようとしていますが、資本の力で管理するのではなく、市民の手で管理する『<市民>営化』を目指す。それがコモンを再生し、その領域を広げていくということです。そうやって、資本主義ではない領域を増やし、利潤追求とは無関係な経済システムを作っていく」だの、「資本主義の壁を突破する道は、コモンの実践の場としての協同組合やワーカーズ・コープを活かすことにある」とか、「マルクスが晩年に到達したのはエコロジーの思想」(斎藤 幸平『人新世の「資本論」』)だなどというものである。

 

 公営、民営、<市民>営化、協同組合やワーカーズ・コープなど、あれやこれやの経営形態や運動形態は、資本主義の壁を突破するということに無力である。資本が制覇している資本制社会は、あらゆることあらゆるものが、資本のために役立てられる“システム”が貫徹することで成り立っている。資本制社会の真っ只中に、「資本主義ではない領域を増やし、利潤追求とは無関係な経済システムを作っていく」という考えは、マルクスからフーリエやオウエンへの後退にすぎない。

 「マルクスが晩年に到達したのはエコロジーの思想」だって? 自分なりにマルクスを読んで、「そう思えるところもある」と言うのは自由だ。しかし、それはマルクスの核心ではない。マルクスの思想は、社会主義革命の思想である(それを支持するか、わたしのように反対するかは別の問題)。思うに、斎藤 幸平が、マルクス晩年の『フランスの内乱』を知らぬはずがない(知っているに違いない!)。知りながら、あえてこんな主張をすることは、贔屓の引き倒しになるのではないだろうか?