断章251

 P・ドラッカーは『「経済人」の終わり』の1969年版への「まえがき」に、「本書の結論は(引用者注:1939年初版発刊)当時としてはあまりに極端だった。すなわちヒトラー反ユダヤ主義がその内部的力学によってユダヤ人抹殺という『最終解決』まで進まざるをえないこと、西ヨーロッパの強力な軍事力をもってしてもドイツの侵略には対抗できないこと、また、ヒトラーがいずれはスターリンと手を結ぶことを予測していた。〈中略〉

 当然のことながら本書は刊行されるや、当時まだマルクス社会主義の説くユートピアの夢に酔っていたリベラルな書評氏たちから激しく非難されることとなった」と書いた(そして、日本の「左翼」インテリは、酔夢にまどろんだままである)。

 

 以下は、第2章の抜粋・再構成。

 「ファシズム全体主義は、ヨーロッパの精神的、社会的秩序の崩壊によって生まれた。この秩序の崩壊にとどめを刺したのが、ブルジョワ資本主義を葬り新しい秩序をもたらすはずだったマルクス社会主義に対する信条の崩壊だった。

 マルクス社会主義の成功は、自由と平等のない資本主義に打ち勝ち、階級のない社会を実現できるかどうかにかかっていた。そしてマルクス社会主義は、階級のない社会を実現できなかった。権力、地位、革命の果実は、労働者の名のもとに、かつその利益のためと称して指揮命令、管理統制する特権官僚の手に落ちた。プロレタリアの名のもとに権力を握った少数の人間が、それをプロレタリアに返す日は永遠に来ない。

 マルクス社会主義の魅力は、その存在と力の根拠は、新しい秩序と平等をもたらすという約束に基づいていた。この魅力を欠くならば、マルクス社会主義は基盤を失い解体せざるをえない。きたるべき秩序の先触れとしてのマルクス社会主義はあらゆる基盤を失った。

 しかもその挙げ句、ブルジョワ資本主義体制における単なる反対勢力の一つに成り下がった。確かに反対勢力としては有力である。しかし、ただ反対するだけの運動は、その反対する秩序が存在して初めて意義と訴求力をもちうる。批判だけが唯一の機能であるならば、社会的勢力としてもマルクス社会主義はその存在意義をブルジョワ資本主義の存在と妥当性に依存せざるをえない。たとえブルジョワ資本主義の信用を落とすことはできても、それに取って代わることはできない。

 マルクス社会主義の目指すものも、革命から革新、改革、社会政策、連立政権、産業民主主義となっていった。最後には、資本家とともに『統一戦線』(いわゆる『人民戦線』戦術)を形成した(引用者注:中国共産党は資本家の入党をさえ認めている)。

 

 「今日、ブルジョワ資本主義の崩壊が常識のようになっている。社会秩序及び信条としてのブルジョワ資本主義は、経済的な進歩が個人の自由と平等を促進するという信念に基づいている

 ブルジョワ資本主義こそ、自由で平等で理想的な社会を自動的に実現するための手段として利潤を積極的に評価した、最初で唯一の社会的信条だった。ブルジョワ資本主義以前の信条では、私的な『利潤動機』は、社会的には有害なもの、あるいは少なくとも中立的なものとみなしていた。

 『利潤動機』に社会的な価値を認めるならば、個人の経済活動をあらゆる制限から解放しなければならなくなる。ブルジョワ資本主義は、経済的な領域に対し独立性と自立性を付与する。まさに、経済的な進歩が千年王国を実現するがゆえに、経済的な目的の実現のためにあらゆるエネルギーが注がれなければならない。これがブルジョワ資本主義である。

 これまでの150年から200年にわたるブルジョワ資本主義の発達によって得られた物質的、経済的成果から見れば、経済活動の自由は疑いもなく望ましいことだった。そして、そのような経済的自由が受け入れられたのは、究極的には、社会的、経済的な自由と平等が約束されていたからだった。

 しかし今日、この約束が幻想にすぎなかったことは誰でも知っている。経済発展は平等をもたらさなかったし、機会均等という名の形式的な平等さえもたらさなかった。17世紀、18世紀のヨーロッパ社会では、最下層からであっても、いったんそこから抜け出せば、その後はるか上層まで登り詰めることができた。ところが、20世紀のヨーロッパ社会では、生まれた階層からすぐ上の層に上ることさえ至難である。

 経済的自由によって平等を実現できなかったために、ブルジョワ資本主義はそのもたらした物質的恩恵にもかかわらず、プロレタリアだけでなく経済的、社会的に大きな恩恵を受けた中流階級の間でさえ、社会制度としての信用を失った。

 平等の約束がいかに重要な意味をもつかは、下層中流階級において見られる子供を大学に行かせるための涙ぐましい努力に現われている。彼らは、ブルジョワ資本主義の枠外にある自由業に、恵まれた世界への道を見出そうとする。しかしこの道もまた幻想であることが知らされたとき、下層中流階級出身の大卒者もまた、ブルジョワ資本主義に背を向けた。

 ブルジョワ資本主義が平等をもたらさないことは、疑いの余地もなく、弁解のしようもなく証明された。経済的な成功、繁栄、進歩が、このブルジョワ資本主義の信条の崩壊を一時的に隠蔽することはできるかもしれない。しかし、もはやそれを元に戻すどころかその当然の帰結を遅らせることさえできない。

 ブルジョワ資本主義が厳格に仕切られた階級の間に必然的に階級闘争をもたらすために、偽りの神であることが明らかとなった一方で、マルクス社会主義も、階級をなくすことができなかったがゆえに偽りの神であることが明らかになった。

 今や、経済的な領域の独立性と自立性が望ましいものであり、必要なものであるとする信念が減退しつつあり、そのような現実も消滅しつつある。大衆は完全に自由な経済活動が自由と平等の社会をもたらさず、将来ももたらしえないことを悟った。

 ブルジョワ資本主義とマルクス社会主義の旧秩序が、もはやいかなる発展も再起も不可能なほどに解体した後、新しい秩序は現れなかった。

 一人ひとりの人間は、その意味を受け入れることも自らの存在に結びつけることもできない巨大な機構の中で孤立している。社会は、共通の目的によって結びつけられたコミュニティではなくなり、目的のない孤立した分子からなる混沌たる群衆となった。

 それでは果たして、孤立し、途方にくれた一人ひとりの人間にとって、自由と平等はいかなる意味をもちうるか。そして、彼らはいかに反応するか。自らの存在そのものを破壊されることによって彼らはいかなる影響を受けるか」。