断章261

 「共産主義の下では、権力はほとんどもっぱら目的である。なぜならば、権力はあらゆる特権の源泉であり、特権を保証するものだからである。権力により、権力を通じて、国富にたいする支配階級の物質的特権や所有権が実現される。権力は理念の価値を決定し、理念の発表を抑え、あるいは許す。このようにして、現代共産主義における権力は他のあらゆる種類の権力と異なり、他のあらゆる制度と異なっているのである。

 権力が共産主義のもっとも本質的な構成要素だからこそ、共産主義は、全体主義的で、排他的で孤立しているのである」(ミロバン・ジラス)。

 

 全体主義には、赤と黒の2種類がある。ファシズム(ナチズム)は黒い全体主義である。共産主義マルクス主義)は赤い(紅い)全体主義である。したがって、P・ドラッカーの『「経済人」の終わり』は、共産主義マルクス主義)についても多くのことを示唆する。

 以下は、『「経済人」の終わり』第7章の引用・紹介である。

 「ファシズム全体主義軍国主義による脱経済至上主義社会は、失業という名の魔物を退治することには成功した。しかしその成功も、現代社会のもう一匹の魔物たる戦争を合理的で意義あるもの、望ましいものとして位置づけられなければ意味を失う。それどころか、ファシズム全体主義は、ブルジョワ資本主義とマルクス社会主義が経済発展を自らの目的としたように、戦争を自らの目的として正当化することができなければならない。しかも、もはや階級闘争や経済的不平等は重要な問題ではないとしなければならない。さもなければ奇跡を起こせない。

 ファシズム全体主義の社会観は、戦争を正当かつ至善のものと位置づけない限り幻想に終わる。したがって、ヒトラームッソリーニの社会的、政治的殿堂の全体が、人間の本質としての『英雄人』の概念の上に構築されているのは当然である。『英雄人』なるファシズム全体主義の概念の中核にあるものは、個々の人間の犠牲の正当化である。

 ところが社会そのものに対しては、『英雄人』の概念ではいかなる目的も意味ももたらすことができない。それどころか、犠牲の正当化は社会を否定するのみならず社会を破壊する。個人にとっては危険に生きることもよい。しかし社会は何よりもまして継続しなければならない。危機に陥ることなく継続できなければならない。

 新しい秩序を生み出そうとするファシズム全体主義の試みが失敗に終わるのは、この矛盾のためである。失業という魔物は退治した。戦争の合理性も明らかにした。しかし戦争の合理化は、社会そのものを無意味なものとしなければ成立しない。よって、奇跡は不可能である。〈中略〉

 こうしてファシズム全体主義は、『英雄人』なる破壊的な概念の上に社会を構築することに失敗したため、ほとんど機能しなくなっている。軍国主義を脱経済至上主義社会の調和によって代替することに失敗したため、階級闘争の問題も解決できないでいる。

 失業という魔物を退治するための軍拡さえ、失業と同じように不合理となる。その結果、消費における犠牲を正当化する唯一の基盤が崩壊する。しかし、それでも軍拡は最高目的として遂行し続けなければならない。脱経済至上主義社会は軍国主義を基盤とし続けなければならない。他にとるべき道はない。このような状況では逃げ道は一つしかない。すべてを他の者のせいにすることである。〈中略〉

 新しい秩序を創造しえないことが明らかとなれば、悪魔の化身たる特定の人物への攻撃による自己の正当化が、唯一とまではいかなくとも主たる信条とならざるをない。まさにそれらの敵との闘いこそ唯一の目的とされる。

 そしてついには、彼らからの脅威の絶滅こそがファシズム全体主義の正当化の事由とされる。彼らに対する呵責なき闘いこそ、いかなる野蛮、暴力、欺瞞をも許容し、かつ当然とする聖なる任務である。〈中略〉

 ここにおいて、反ユダヤ主義は、いかなる説明も抜きにして、世界に合理を回復しナチズム社会を正当化するための有効な悪魔論となる。反ユダヤ主義は、それが野蛮で残虐であるがゆえにではなく、まさにファシズム全体主義革命の力学と論理を示しているがゆえに、徹底した分析を必要とする。しかも、それは今日最も理解されていない部分である。〈中略〉

 ナチス反ユダヤ主義に驚き、激昂する民主主義国の側で行われている説明は不十分である。ナチスユダヤ人迫害は史上類のない卑劣な暴虐であると定義してみても、単なる事実の報告、非難にすぎない。説明にはなっていない。『ドイツは常に反ユダヤ的であった』との見方にいたっては、戦前やヒトラー前のドイツについての無知以外の何物でもない。

 確かに、戦前のドイツやオーストリアにも、ユダヤ人に対する差別は存在した。彼らは、婚姻権と就業権という二つの重要な権利のうち、就業権のほうは完全には持っていなかった。ユダヤ人は、軍の将校、判事、大学教授にはなれなかった。だが、婚姻権については、ドイツでは完全に認められていた。ヒトラー前の時代、ドイツ系ユダヤ人はドイツを最も反ユダヤ的でない国と考えていた。〈中略〉

 人種的反ユダヤ主義の本当の原因は、当時のブルジョワ階級をめぐる社会構造が、ユダヤ人を邪悪なブルジョワ資本主義と自由主義の代表としてとらえることを、必然とまではいかなくとも可能にしたことにある。ドイツのブルジョワ階級は自らの革命によって力を得たのではなかった。西ヨーロッパ諸国とは異なり、上からの力によって解放されたにすぎなかった。それは社会目的の一つとして解放されたのではなかった。単に国家統一の過程で実現したにすぎなかった。したがって、ドイツではブルジョワ階級が支配階級となったことはなかった。社会と政治の支配者は貴族階級だった。さらには高級官僚と高級将校という爵位なき貴族階級だった。〈中略〉

 このような状況に加えて、上流階級は、ブルジョワ階級が権威ある階級に育つことを自らの地位を脅かしかねないとして意図的に妨害した。こうしてドイツのブルジョワ階級は、数も少なく政治的に無力だっただけでなく、社会的にも差別される日陰の存在になっていた。ところが、ブルジョワ資本主義社会の急速な発展がそのブルジョワ階級を必要とするようになった。〈中略〉

 こうしてユダヤ人とキリスト教ブルジョワ階級は、社会的、政治的には差別されながら、経済的、知的には大きな力をもつ上層中流階級として一体化した。キリスト教ブルジョワ階級は、同じ差別を受けている者として、また同じ民主主義の原理に立ち差別に抵抗する者として、ユダヤブルジョワ階級を対等の存在と見た。これに対しユダヤブルジョワ階級の側では、与えられた平等な地位のゆえに、それまで迫害と差別への対抗手段としていた排他性を払拭していった。

 両者いずれの側においても人種を超えた事業上のパートナーシップや交際、婚姻が自然なこととなった。さらにユダヤ人の側では、平等の実現にとって唯一の障害となっていた宗教を変えることについてさえ抵抗感を失っていった。これらの結果、ユダヤ人社会そのものの影が薄くなっていった。50年か100年もすれば、ドイツやオーストリアには純粋なユダヤ人は一人もいないということになりそうだった。〈中略〉

 ドイツ人とユダヤ人の結婚が見られるのは、キリスト教徒とユダヤ人が共同戦線を張っているブルジョワ階級だけである。ドイツ人ブルジョワ階級との結婚がユダヤ人の際立った特徴であるとするならば、ユダヤ人との結婚がドイツ人ブルジョワ階級の際立った特徴とまでなっている。この事実が、第一次大戦ブルジョワ階級が力を獲得したとき重要な意味を持つことになった。〈中略〉

 ブルジョワ階級がしくじり彼らのもとで魔物たちが現れたとき、それをユダヤ人のせいにし、ユダヤ人を悪魔の化身であるとする考えが合理的なこととなった。しかもその考えは人種論に基づく必要があった。ユダヤ人の血に汚されているためとしなければならなかった。さもなければ、多くのキリスト教徒がブルジョワ資本主義の教義に忠誠を尽くしていることが、反ユダヤ主義そのものを意味のないものにしてしまう。ユダヤ人が洗礼によって逃れることができないようにするためにも、人種を問題にしなければならなかった。人種論によってのみ、矯正不能な邪悪さをユダヤ人の本質を規定することができる。こうしてユダヤ人の仮面を剥ぎ、恐慌と失業と戦争という魔物たちを生み出す悪魔であることを明らかにした以上、あらゆる残虐さをもって迫害することが当然のことになる。ユダヤ人が悪魔であるならば人道的配慮も不要となる」。

 

 「旧秩序の魔物たちとの闘いにおいて、ファシズム全体主義が提示した唯一の答えが新しい悪魔の存在だった。しかし、自作の悪魔に対する聖戦では、前向きの信条を生み出すことはできない。新しい秩序をもたらすことはできない。したがって、新しい秩序への要求が強まるほど、ファシズム全体主義は組織を最高のものとして強化し、あらゆるものをその組織に従属させる。〈中略〉ファシズム全体主義の組織において、下部機構は意思決定と自由裁量をまったく禁じられている。自らの発意によっては何事も行うことができない。〈中略〉

 社会的には、組織に至高の地位を与えることは、最も強力な階級として、膨大な内務官僚群を生み出すことを意味する。彼らの仕事は組織を作ることだけである。外国為替、原材料調達、党務、労働戦線、農民戦線などを監督する250万人に及ぶ新しい特権階級が、組織の過剰を加速化させる。しかも、ただでさえ脆いファシズム全体主義の社会的バランスを危うくする。〈中略〉

 新しい秩序を生み出せず、さりとて秩序の代わりにつくり出した組織も役に立たないという宿命から、ファシズム全体主義の最も矛盾し、かつ最も当惑させられる最も重要な特性が生ずる。すなわちファシズム全体主義に対する大衆の態度である。

 一方において、ドイツとイタリアでは、大衆の圧倒的多数が現政権を支持しているという。ところがその一方において、彼らの圧倒的多数が現政権に対してきわめて不満であるという。いずれかが間違っているはずである。だが実際にはいずれも正しい。大衆は不安であればあるほど政権への支持を強める。この矛盾を解く鍵は、大衆には現政権以外に選択肢がないことにある。〈中略〉

 こうして、ファシズム全体主義国の大衆が耐えるべき緊張の度合いは高まっていく。大衆は心底不満であって、絶望し、幻滅している。しかし、まさに不満を持ち、幻滅しているからこそ、全力をもってファシズム全体主義への信仰を深めていかざるをえない。いま手にしているものを失うならば、何が手元に残るというのか。彼らは、体に悪いことを知りつつ、夢幻と忘却を求めて麻薬の量を増やす麻薬中毒患者と同じである。ここにこそ、ファシズム全体主義における集会、デモ、行進がことごとく異常な興奮に包まれる原因がある。〈中略〉

 幻想であることを知りながらそれを信じなければならないことの矛盾を解くことは、いかなる人間にもいかなる組織にもできない。ファシズム全体主義に神は存在しない。しかしファシズム全体主義は自らの矛盾を解くために、悪魔、超人、魔術師を必要とする。ここにおいて、邪を正、偽を真、幻を現実、空虚を実体に変えるために、『指導者』が必要となる。〈中略〉

 はからずも、大衆の絶望が指導者原理を生み出し、ファシズム全体主義の教義を強化することとなった。ファシズム全体主義における指導者の役割は、自らのカリスマ性によって社会を救うことにある。〈中略〉

 秩序のない世界や意味のない社会にじっと耐えるということをせず、得られぬ自由と平等を追求する努力は西洋の歴史の原動力である。西洋に特有の原動力と救世の精神が、西洋の文明を動かしてきたことは間違いない。

 ファシズム全体主義の革命が、新しい秩序の始まりを意味するわけではない。それは古い秩序が崩壊した結果にすぎない。それは奇跡ではない。新しい秩序、新しい人間観が現れたら最後、たちまちにして消え去る蜃気楼である」。