断章269

 現生人類と旧人類の間で交雑(交配)があったとしても、その後に旧人類に起きたことは、アメリカ大陸を「発見」したヨーロッパ人の銃と病原菌による惨禍に見舞われたアメリカ先住民にまさる悲劇だった。すなわち、「絶滅」である。

 

 「7万年前、世界には非常に多様な形態の人類が住んでいた。その人類集団とは現生人類、ネアンデルタール人、シベリアのデニソワ人、南方に分布していたアウストラロ(南)デニソワ人、インドネシアフローレス島で見つかったホビットである。古代DNA解析によれば、5万4000~4万9000年前頃、ネアンデルタール人と現生人類の、4万9000~4万4000年前頃、デニソワ人と現生人類の交配があった」。

 「2016年になると、パンドラの箱を開けたかのように、古代人DNAのデータ量が爆発的に増えた。試料を整理した結果、ヨーロッパ狩猟採集民の歴史における5つの大きな出来事がわかった。

 アフリカや中東から出た現生人類の先駆者集団はヨーロッパ全土に拡散した。遅くとも3万9000年前頃には1つのグループがヨーロッパ狩猟採集民の系統を創始しており、それが途切れずに2万年以上続くことになる。やがて、このヨーロッパ狩猟採集民集団の東方分岐に由来するグループが西方に拡散し、すでにいたグループに取って代わった。その後このグループ自体も氷河の拡大につれて北ヨーロッパから押し出された。氷河が後退するにつれ、西ヨーロッパには、数万年にわたって首尾よく存在し続けていた集団が南西方面から戻ってきて再び住むようになった。最初の強い温暖期に続くその後の移住は、南東方面からの拡散もあってさらに大きな影響があり、西ヨーロッパの集団を変容させただけでなく、ヨーロッパと中東の集団を均質化させた」。

 「1万2000年前から1万1000年前の間にトルコ南東部とシリア北部で農耕が始まり、その地域の狩猟採集民が小麦、大麦、ライ麦、えんどう豆、牛、豚、羊など、今も西ユーラシアの多くの人々が頼りにしている動植物の大半を栽培したり家畜化したりし始めた。

 9000年前頃以降に農耕が西に広がって今のギリシアに達し、だいたい同じ頃に東にも広がって、現在のパキスタンにあるインダス渓谷に達した。ヨーロッパでは地中海沿岸を西のスペインまで広がり、北西へはドナウ川流域を通ってドイツに達し、ついに北はスカンディナヴィア半島、西はイギリス諸島と、このタイプの経済活動が成り立つ極限の地にまで広がった」。

 「植物の栽培や動物の家畜化の技術の目覚ましい進歩によって、狩猟や採集に頼っていた時代よりはるかに高い人口密度維持できるようになったため、東の農耕民は移住や近隣集団との交流を活発に行うようになった。しかし、一つのグループが他のすべてを押しのけて絶滅に追いやるという、かつてヨーロッパでの狩猟採集民の拡散の際に一部で見られた図式とは違い、中東では、拡散するあらゆるグループが、先住のグループと混じり合い、のちの集団のDNAに寄与した。今のトルコにいた農耕民はヨーロッパにまで広がった。今のイスラエルやヨルダンにいた農耕民は東アフリカに広がり、彼らの遺伝的遺産は今のエチオピアに最も多く残っている。

 今のイランにいた農耕民と同族の農耕民は、黒海カスピ海の北のステップ地帯はもちろんインドにまで達し、地元の集団と混じり合って牧畜に基づく新しい経済圏を打ち立てた。そしてこの農業革命によって、農作物の栽培に適さない地域にまで農業が広がった。異なる食物生産集団が混じり合うこともあり、5000年前ごろ以降の青銅器時代にいろいろな技術が発展してくると、交雑はさらに盛んになった。西ユーラシアの集団が互いに交雑した結果、青銅器時代には、遺伝的な差異が現在見られるような非常に小さいレベルまで下がった。これは技術 ―― この場合は栽培や家畜化という技術 ―― が、単に文化的な均一化だけでなく遺伝的な均一化にも影響したことを示す驚くべき例と言える。産業革命や情報革命によってわたしたち自身の時代に起こっている変化は、人類の歴史において決して特異な出来事ではないのがわかる」(『交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史』から引用・紹介)。