断章273

 「経済や情報のグローバル化は、改めて国家の役割の再定義を要請しているし、また民族や宗教への覚醒は、改めて国民という集団的なアイデンティティの再構成を要請している」。

 「『国家』をどのように理解し、また論じるかは、まさにグローバル化と情報化の時代の大きなテーマとなっている。とりわけ、わが国の場合にはそうである。20世紀の最後の十数年、20年は、世界的な傾向としての、経済・情報のグローバル化を生み出し、また自由資本主義と社会主義の対立を終焉させた」(佐伯 啓思『国家についての考察』2001年第1刷)。

 

 ―― 2001年には、そのはずだったが、最近は風向きが怪しい。つい先日も、『いまこそ「社会主義」』という本が、朝日新聞出版から刊行されている。著者は、的場 昭弘(2020年12月4日の「断章237」を参照のこと)と池上 彰。

 「コロナ禍で、セーフティネットの大事さを誰もが知った。格差の極大化と、中間層の貧困への転落は世界的にすすみ、米国のサンダース現象が示すように『社会主義』に熱狂する若者も多い。…『社会主義』を考えることは、私たちの明日を考えることなのだ」という宣伝コピーである。

 しかし、「中間層の貧困への転落は世界的にすすみ」というのは、半分はウソである。というのは、製造業が低賃金の後進国に工場を移したことで、先進国の中間層は仕事を失い貧しくなったが、後進国は経済的に発展して中間層は増大し豊かになっている。

 さらに、「格差の極大化」ということも、日本に限っては、ウソである。というのは、「日本でも『格差社会』が問題になっているが、ジニ係数(所得格差を示すのに使われる代表的な指標で、値が大きいほど格差が大きいことを示す)でみれば1960年代前半の日本は今よりも格差社会だった(ちなみに戦前の日本のジニ係数はさらに大きかった)。持てる者と持たざる者の開き、エラい人とフツーの人の距離はいまよりもずっと大きかった」(楠木 建)。

 

 ―― 共産主義マルクス主義)に対するイデオロギー闘争の不十分さと人間の特性のひとつである“忘れっぽさ”が、共産主義マルクス主義)という「水に落ちた犬」がくりかえし岸に上がってきて咬みつくことを許しているのである。

 

 「この急激な時代変化が作り出した潮流の中で、確かに『国家』の観念は、市場や市民の観念とともに、改めて論ずべきテーマとして議論の正面に押し出されてきたといってよい。ただし、国家についていえば、その多くは国家を否定的に論ずるという傾(かたむ)きを持ってであるが。

 一方で、世界を奔流のごとく流れる資本が国家を単位とした経済の境界を打ち崩し、他方で、新たなアイデンティティの模索に挺身する民族主義や宗教的ファンダメンタリズム(近代主義を排し、聖典の記述を全て絶対的に正しいとする運動)が近代国家を内側から突き崩しつつある。

 こうして多くの評論家や学者は、もはや近代の『国民国家』の時代は終わりつつある、と言う。もっともたいていはそう述べた後で、いくぶん小声で、そうはいっても『国民国家』がなくなるなどということはまだありえないだろうが、と付け加えるのではあるが。

 もし、彼らがもっと大きな声で『国民国家はなくならない』といっておれば、事態はもう少し変わっていたのかもしれない。国家を否定形で論じるのか肯定形で論じるのか、ここには大きな違いがあるからである。過ぎ去ってゆくものを後ろ向きに論じるのか、決して過ぎ去りはしないものの現代的意味を新たに論じるのか、ここには大きな違いがある」。

 「もっとも、多少注意しておいていただきたいが、そのことは決して、国家的なアイデンティティ帰属意識だけが決定的に重要だといっているわけではない。それどころか、明らかに、今日、個人の自由は拡大し、世界の情報を手に入れ、旅行に出かける機会も多い。外国に住み、外国の企業で働くという選択肢も急速に増加している。その意味では、国家ではなく、世界を舞台とした個人という次元が目の前に広がりつつあることをわたしは全く否定しない。だが、そうであればこそ、改めて国家なるものがいっそう問題となるし、国家なるものについての考察が必要となるだろう」(佐伯 啓思)。

 コロナ危機に対して、準戦時体制下にも等しい危機感で対処すべき政治家たちが、一部とはいえ、平和ボケしたままであれば、なおさらである。