断章296

 「政治は結果がすべて」と、日本の保守政治家は言う。この見解は、わからないでもない。というのは、「共産主義者の使命は、民衆に奉仕することである」と宣伝していた毛 沢東やポル・ポトによる政治の結果を見てみれば・・・。

 

 それにしても、「新聞の1面トップ級ニュースだと思うが、これまでのところほとんど報じられていない。税金と社会保険料に関する国民負担の数字である。

 財務省によると、分母に国民所得、分子に税負担と社会保障負担の合計値をおいて算出した国民負担率は、2021年度に44.3%になる見通しだ。国民負担率に将来世代の税負担になる財政赤字の比率を加えた潜在的国民負担率は、56.5%と見通している。けっこう高いと感じるが、この数字だけなら中程度のニュースだ。

 目を注ぐべきは、同時に明らかになった2020年度の実績見込みである。国民負担率は46.1%だが、潜在的負担率は66.5%と、法外に高い値が記されている。高負担国家の代名詞であるスウェーデンでさえ潜在的負担率は58%台止まりだ(2018年実績)。むろんコロナ対策で、今は同国の負担率も上がっているかもしれない。だが18年の財政赤字比率がゼロという巧みな財政運営を考えると、コロナ対策費を借金でまかなったとしても国の財政の余裕は日本よりはるかに大きい。

 ちなみに、日本の財務省が昨年2月に公表した資料をみると、20年度の潜在的負担率の見通しは49.9%だった。この1年間に16.6ポイントも跳ね上がったのは、ひとえにコロナ対策のせいだ。赤字国債の発行という将来世代へのつけ回しで財源を工面した。その事実を物語る数字である。〈中略〉

 根源的な問題は、潜在的負担率が66.5%に膨れあがる過程で、コロナ対策を名目にすれば将来世代につけをどんどん回してもいいんだという空気が醸成されたことではないか。もちろん100年に1度のパンデミックである。蒸発した需要をカバーする責務は、一義的に国・自治体など公的セクターにある。だが『対策費は大きいほど善だ』という意見に疑問を呈する声はかき消され、異論を封じてしまった政策決定プロセスは、改めて検証が必要になるだろう。〈中略〉令和の日本を、江戸期の『五公五民』をしのぐ重税国家に陥らせた経過が軽すぎないだろうか。〈中略〉

 潜在的負担率を1年で66.5%に上昇させた過程の検証が十分でないままに、21年度の政府予算案は、週内にも国会で成立する運びだ。重税国家への足音がひたひたと忍び寄ってくる」(2021/03/24 日本経済新聞・大林 尚)。

 

 日本の高度経済成長は、アメリカを「模倣」したことによる成長であった。やがて、知識や技術、そして消費生活もアメリカに追いついた。すると、慢心・安住して次の「創造」に踏み出すことができないで停滞した。経済のパイが大きくならなければ、当然、今あるパイの取り分の争いになるのは必定である。だから、各種利益集団・圧力団体と政界・官界の癒着も増大するのである。

 

 わたしたち貧乏人には、日本がもっと豊かになること、経済のパイがより大きくなることが必要である。

 主権国家が覇権をめぐり勢力圏を巡って争う時代の国政の「基本」は、「富国強兵」「殖産興業」でなければならない。すでに十分満ち足りた「インテリ」たち(例えば、白井 聡の暮らしぶりを見よ!)による、「資本主義は悪。経済成長は環境破壊」という“プロパガンダ”にだまされてはならない。

 資本主義の“妙”は、インセンティブイノベーションの両輪をフルに駆動できれば、物の大量破棄や資源の無駄使いといった問題を解決できる「省エネ」「省資源」「合理化」をも実現していくことにある。