断章301

 「にわかに信じがたいかもしれないが、私たちは人類史上最も平和な時代に生きている。日々世界で起きる紛争・殺戮の報道を尻目に、じつは暴力は日に日に減っているのだ」(スティーブン・ピンカー)。

 また、「停滞している。貧しくなった」と言われつつも、「先進国の住民は、巨視的に見ればかつてないほど豊かな世界に生きている」ので、そういった現実を背景として、「『私は私の人生を自由に選択できるし、そうすべきだ』という価値観。もっとかんたんにいえば、『自分らしく生きることは素晴らしい』という価値観が浸透拡大する。

 『そんなの当たり前だ』と思うかもしれないが、数百万年の人類史には『自由な人生』などという選択肢はそもそもなかった。日本でも江戸時代はもちろん戦前ですら、生まれた家柄によって職業が決まり、親や親族が決めた相手と結婚するのが当たり前だった。一人ひとりがあまりに脆弱なので、共同体に依存して生き延びるしかなかったのだ。

 ところが半世紀ほど前から、テクノロジーがもたらすゆたかさを背景に、『自分らしく生きる』ことが可能になった」(橘 玲)と、多かれ少なかれ、誰もがそう感じていた。生存と将来への安心感が、この価値観の浸透拡大を支えてきたのである。

 「ひとは生存のために死に物狂いになっているときには自己表現のことなど考えられないが、生存について心配しなくてもよくなれば自分を表現したくなる」(ロナルド・イングルハート)。

 

 ところが、「新型コロナの影響ではっきりしたのは、『経済格差がさらに拡大する』ことだ。アメリカの調査では、株式など多額の資産を保有する富裕層や、リモートワークに適した高度専門職はコロナ禍でも収入はほとんど影響を受けず、旅行やパーティーなど不要不急の支出が減って貯蓄が増えている。それに対してエッセンシャルワーカーなどの低所得層では失業者が急増する一方、家賃や食費・教育費などの基礎的な支出は減らすことができないので、わずかな貯蓄を取り崩してしのいでいる。このようにして、『恵まれたひとはますますゆたかになり、恵まれないひとはますます貧しくなる』という“マタイ効果”が加速する」(橘 玲)。

 

 3月4日付けの日本経済新聞によれば、「官庁もDX(デジタルトランスフォーメーション)人材を募集。年収1000万円や週3日勤務の厚遇で。民間では数千万円も。それでも確保楽観できず」というのだ。

 一方、「阪急阪神ホールディングスは31日、グループのホテル6軒の営業を順次終了すると発表した。大阪新阪急ホテルや第一ホテルアネックスなどを2021年度末から25年度末にかけて閉める。新型コロナウイルス禍で利用が減少し、ホテル事業の赤字が拡大。ホテル子会社の従業員も3割以上減らす」という。

 

 この流れは、社会全般に生存と将来への不安感を増大させるだろう。ところが、日本のエスタブリッシュメント(注:国や市民社会や組織の中で、意思決定や方針樹立に影響力が強い、既成の権威的勢力)には、プリンシプルも戦略も不在のように見受けられるのである。

 

【補】

 「菅義偉首相肝煎り、『デジタル庁』の発足が間近だ。関連法案は4月6日に衆院を通過し月内にも成立する見通し。デジタルガバメント成否のカギを握るのはいわずと知れた個人番号、通称・マイナンバー。日本に住む1億2000万人超の全員に割り振られている12ケタの数字だ。1960年代まで遡る国民的な侃々諤々(かんかんがくがく)を経て制度そのものは5年以上も前に発足したにもかかわらず、いざ使いこなそうとすると必要になるプラスチック製のICチップ付きカード(マイナンバーカード)の普及率は1割前後の低空飛行を続けてきた。皮肉にも新型コロナウイルス禍での10万円給付金の配布を巡るドタバタで必要性が認識され、税金によるキャッシュバック、マイナポイント事業も相まってようやく3割弱まで普及が進んだ。

 だが、問題は依然山積み。最近ではマイナンバーカードを健康保険証として利用できるようにする『マイナ健康保険証』の稼働が予定の3月下旬から半年程度の延期を余儀なくされた。"好例"という言葉は適切ではないが『なんでそんな問題が起きるの?』と素朴に疑問を持つと、マイナンバーを取り巻く課題が浮かび上がってくる。

 本来であれば3月下旬には準備ができた病院・薬局の受付に顔認証用のカードリーダーが設置され、マイナンバーカードを読み取らせれば瞬時に本人確認ができるシステムの本格導入が始まるはずだった。だが昨年10月以降、健康保険組合など公的医療保険の保険者が持つデータとマイナンバーを突き合わせる作業を進める中で、氏名・年齢など本人の基本情報とマイナンバーとが合致しないケースが多数発見されたのだ。その数は2月には最大3万件に達した。マイナ保険証は受付だけでなく医療データの収集・閲覧も可能な機能を持つため、このまま本番に突入すれば最悪の場合、自分の特定健診データや薬剤情報などが他人の目に触れる恐れさえあった。

 一体、なぜ? 原因は保険者が持つデータにマイナンバーを加える際の誤りとみられる。国民皆保険の日本では全員が何らかの公的医療保険に加入している。自治体が運営する市町村国保や公務員が入る共済組合の他に民間企業が母体の組合健保や協会けんぽなど計3000以上が存在する。ザックリ割ると1保険者平均10の誤入力があった計算だ。多いか少ないかは微妙だが、保険者によるマイナンバー収集過程を考えると確かに随所に誤りが起きる可能性を内包している。

 マイナンバーは『番号法』という法律にガチガチに縛られ運用される。企業や団体はむやみに個人に対して番号の提供を求めてはならず、その取得や保管・管理にも罰則規定のある厳しいルールが課されている。健保は個人から直接マイナンバーの提供を受けられる主体でないため、通常企業を経由して番号を入手する。そして企業の場合の入手方法は会社員個人からの自己申告だ。

 12ケタもある個人番号を手書きで提出すれば誤記の可能性は常にある。しかも家族で1番号の健康保険証に対し、マイナンバーは個人ごとの番号だから5人家族なら誤記の可能性も5倍に。原本(マイナンバーカード、もしくは通知書のコピー)との突き合わせ確認をしているはずだが、現場でどこまで徹底できているかは疑問も残る。さらに大企業では外部のデータ入力会社に作業を委託するケースも多い。会社→委託会社→健保と関係者が増えれば、誤入力や情報漏洩の危険性は増大する。

 問題のあった3万件については厚生労働省がそれぞれの保険者に伝え、担当者が人海戦術で潰していった結果、現時点では問題はほぼ解消しているという。今後は『ヒューマンエラーが起こりうることを前提にシステム対応を強化する』(厚労省)。この手のことに百%ミスなしがあり得ないのは当然だが、効率化のための仕組みづくりなのに逆説的に膨大な作業量が生じているのは皮肉な現状だ。

 それも『なぜ?』と考えるに、行政と国民の間で土台となる共通認識が欠如している現実に行き着く。マイナンバーとはどういう数字で、どう生かし、どう規制するか ――。議論の整理を避けたまま運用の拡大は続く。マイナンバー自体は日本に住む全員に好むと好まざるとにかかわらず、いわば強制的に付番されている。にもかかわらず『自己情報コントロール権の侵害』という批判を恐れてか、運用プロセスにおいては随所で『任意』を組み込むことで不要なヒューマンエラーを呼び込んでいるようにもみえる。任意でつくるマイナンバーカードの低普及率しかり、健保の情報収集の誤りしかりだ。問題の在りかについて同志社大学の北寿郎教授は『政府側にマイナンバーを使う覚悟ができていないという根本的な問題があり、利用者側にも誤解を含めてそんな政府を信用していないという事情がある』と指摘する」(2021/04/06 日本経済新聞・山本 由里)。