断章346

 「定住は、穀物や動物の作物化・家畜化よりはるかに古く、穀物栽培がほとんど行われない環境で継続することも多かった。

 最初の大規模な定住地が生業のために依存したのは、圧倒的に湿地の資源であった」(『反穀物の人類史』ジェームズ・C・スコット)。

 

 メソポタミアは、ティグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野であり、過去のペルシアの一部であり、現在のイラクにあたる。古代のメソポタミアにはティグリス川とユーフラテス川がつくりだす広大な湿地が広がっていた。

 つまり、現在は「つるピカハゲ爺」でも、昔日から「つるピカハゲ爺」だったのではない、ということである。

 そこは、いわゆる「肥沃な三日月地帯」内だった。「肥沃な三日月地帯とは、古代オリエント史の文脈において多用される歴史地理的な概念である。その範囲はペルシア湾からティグリス川・ユーフラテス川を遡り、シリアを経てパレスチナ、エジプトへ至る半円形の地域である」(Wikipedia)。

 

 「ティグリス・ユーフラテスの2つの川に挟まれた地域は、今でこそほとんどが乾燥地帯だが、かつての沖積層南部では三角州の湿地が複雑に入り組み、洪水の季節になるたびに何百という流路が、あちらで現れこちらで消えしながら交差していた。沖積層は巨大なスポンジの働きをしていて、毎年、流水量が増えるとそれを吸収して地下水面を上昇させ、やがて5月に乾季が始まると、こんどはゆっくり放出していく。

 ユーフラテス川下流の氾濫原はとりわけ平坦だった。毎年の洪水の最盛期には、粗い堆積物が積み上がってできた自然の畝や土手を、水が当たり前のように乗り越え、斜面を流れ落ちて、となりの低地や窪地に流れ込んだ。多くの水路では河床が周囲の土地よりも高いので、水位の高いところの堤を一カ所破るだけで、灌漑と同じ目的が達せられた。

 あとは何もしなくても、自然が準備した畑に種子粒が広がっていく。栄養豊かな沖積層は、ゆっくりと乾燥していくなかで、野生の草食動物のために豊富な飼い葉も用意してくれた ―― もちろん家畜化されたヤギ、ヒツジ、ブタのためにも、である。

 こうした沼地の住民は、俗に『亀の甲羅』とよばれる、わずかに盛り上がった小さな土地に暮らしていた。

 住民は、こうした亀の甲羅から手の届く範囲にある湿地資源のほぼすべてを利用していた。ヨシやスゲは家の材料や食料になったし、ほかにも多種多様な可食植物(イグサ、ガマ、スイレン類)があった。主な蛋白源はリクガメ、魚類、軟体動物、甲殻類、鳥類、水禽類、小型哺乳類、そして季節ごとに移住してくるガゼルなどだった。豊かな沖積層の土壌とたっぷりの栄養を含んだ二つの大河の河口という組み合わせは、並はずれて豊かな水辺の生活を生み出し、膨大な数の魚類、ミズガメ、鳥類、哺乳類 ―― そしてもちろん人間! ―― などが、食物連鎖の下位にいる生き物を食べようと、引き寄せられてきた。紀元前6000年代から5000年代の温暖で湿潤な条件のもとで、野生の生業資源は多様で、量も豊富で、安定していて、しかも回復力があった。

 とりわけ食物連鎖の下位にある資源の密度と多様性は、定住をいっそう現実的なものとした。たとえばアザラシ、パイソン、カリブーといった大型の獲物を追う狩猟採集民と比べると、植物、貝類、フルーツ、ナッツ、小型魚類など、もっぱら栄養段階が体の食物を摂取する人びとは、移動がうんと少なくて済む。こうした食物は、ほかの条件が同じなら、大型の哺乳類や魚類よりも密集しているうえ、あまり移動しないからだ。メソポタミアの湿地帯には栄養段階が下位の生業資源が豊富にあり、それがまたとない好条件となって、早い時期に多くの定住コミュニティができたのだろう。

 南部沖積層にできた最初の固定村落は、単に生産性の高い湿地領域にあったのではなく、いくつかの異なる生態圏を縫うように位置していた。おかげで村人はどの生態圏からも収穫できたし、どれかひとつに排他的に依存するリスクも低減されていた。村人は、海岸や河口の資源豊かな海水環境と、それとは非常に異なる上流河川環境の淡水生態圏との境界に暮らしていた。実際に、汽水域と淡水域の境界線はつねに動いていて、潮汐によって行ったり来たりした。しかも、こうした平坦な地形では、その移動距離が大きい。二つの生態圏が環境を横切って移動するおかげで、多数のコミュニティが、居ながらにして両方の生活資源を手にすることができた。季節ごとの氾濫と乾燥、およびそれぞれに特有の資源についても同じことが、さらに強く言えるだろう。雨期の水生資源から乾季の陸生資源への(およびその逆の)移行は、この地域で年ごとに繰り返される雄大な拍動だった。沖積層に暮らす人びとは、ひとつの生態圏から別の生態圏へと移動する必要などなく、同じ場所に留まっていれば、異なる生息地が、いわば向こうからやってきてくれたのだ。

 さらに、ヨシ舟による交易の容易さという利点もあった。

 湿地帯の豊かさが果たした圧倒的に中心的な役割が無視されてきたのはメソポタミアだけではない。

 ほぼ同じことは、河姆渡(かぼと)文化が栄えた中国・杭州湾についてもいえる。

 インダス川の初期の定住地やハラッパ、さらにはタイのハリプンチャイもこの記述がぴったり当てはまるし、東南アジアのホアビン文化でも、重要な遺跡のある地域は大半が同じような環境だった。さらには、メキシコシティの近くにある初期のテオティワカンの遺跡や、ペルーのティティカカ湖のシュスタニ遺跡など高地にある古代定住地の遺跡にしても、栄えていた当時はやはり広大な湿地帯にあって、いくつもの生態系が接する環境から、魚類、鳥類、貝類、小型哺乳類などの豊かな収穫を得ていた」(『反穀物の人類史』を抜粋・再構成)。

 

 さらに日本の鳥浜貝塚遺跡を加えてもよいだろう。「鳥浜貝塚は、福井県に所在する縄文時代草創期から前期にかけて(今から約12,000〜5,000年前)の集落遺跡である。遺跡は、海抜0メートル~-4.0メートルにある低湿地帯貝塚で、赤漆塗の櫛をはじめとする漆製品、石斧の柄、しゃもじ、スコップ状木製品、編物、縄などの有機物遺物やヒョウタン・ウリ・アサ・ゴボウなどの植物遺体、丸木舟など、通常は腐食して残りにくい貴重な遺物が、水漬けの状態で良好に保存されていたため、『縄文のタイムカプセル』と呼ばれることがある」(Wikipedia)。