断章356

 物事には順序というものがある。なので、人類最古の文明というシュメル文明を少し詳しく見てみよう。

 

 「周囲が開けているメソポタミアでは異民族の侵入が繰り返された。メソポタミアが不毛な土地であったならば、誰も侵入しない。穀物のよく実る、豊かな土地であるメソポタミアなればこそ誰もが住みたがった。また富を生み出す交易活動にはティグリス・ユーフラテスの両河とペルシア湾を結ぶ交通路が利用できた。西アジア世界全体を眺めたときに、交通の要衝としてのメソポタミアが占める重要性は、B.C.4000年紀後半からB.C.3000年紀のシュメル人が活躍した時代も、前4世紀にアレクサンドロス大王がやってきたときも、そして現在も共通している」。

 「シュメル人は『謎の民族』である。シュメル人はどこからやってきたかわからない。しかし、シュメル人はB.C.4000年紀後半にはメソポタミア南部のシュメル地方に登場し、B.C. 3000年頃には人類最古の都市文明が開花していた」。

 例えば、「最古の文字はシュメルで生まれた。現在わかっている最古の文字はB.C.3200年頃の絵文字であり、ウルク古拙(こせつ)文字といわれている。それは、物の数量及び種類を表すためのトークンと呼ばれる粘土の道具から発達したといわれている」。

 「B.C.3200年頃にウルク市で発明された文字が整備され、完全な文字体系に整えられるのはB.C.2500年頃である。ウルク古拙文字は表語文字であったが、この頃になると表音文字も登場する。文字の数も約600に整理され、シュメル語が完全に表記されるようになった」(『シュメル ―― 人類最古の文明』から引用・再構成)。

 

 「シュメル人は多数の都市国家を形成し、これらは長期にわたり分立していた。歴史の多くを通じて都市国家が強い自律性を維持していたことはシュメルの政治文化の大きな特徴である。シュメルの都市国家が割拠した初期王朝時代はおよそ900年あまりも続き、ルガルザゲシやサルゴンといった王たちによって領域的な支配がなされるようになっても都市国家的な伝統は強固に残存し続けた。

 シュメルの都市国家の中でも早期に大規模に発達し、しばしば『最古の都市』とも呼ばれるのがウルクである。ウルクはB.C.4000年紀後半にはすでに都市の基本的な要件を備え、政治的・宗教的中心性を備えた発展を遂げた。シュメルの都市国家は中心部に都市神の住居となるべき神殿を持っていた。理念的には都市神こそが都市の所有者であり、都市国家を治める王は神に代わって地上を統治する代行者であるという王権思想が普及していたことから、神の住居である神殿の建設、修繕は王のもっとも重要な責務のひとつであった」(Wikipedia)。

 

 「初期王朝時代の王の務めは、まず、戦争での勝利、つまり外部からの攻撃に対して自らの都市国家を守ることであり、一方内政については豊穣と、さらに安定を維持することであった。安定を維持するためには、神々の定めた秩序を維持し、弱者救済に努めて、市民へ『自由』を付与することが王に求められた」。

 「シュメル社会は身分制社会であり、奴隷がいた。奴隷はその所属で分ければ、個人の家で働く家内奴隷と神殿、宮殿などの組織に所属する公的奴隷がいた。またその出自からは四つに分けられる。まず、市民が負債を負った結果として落ちる『債務奴隷』がいた。次に、犯罪への罰として落とされた『犯罪奴隷』が挙げられる。また、外国から商人によって買われてきた『購入奴隷』もいた。さらに、戦争に敗北したために奴隷にされた『捕虜奴隷』がいた」。

 「王は債務奴隷を解放することと並んで、未亡人や孤児のような社会的弱者を庇護(ひご)することで、神々が定めた本来あるべき姿に都市を戻し、安定をもたらすことに努めた」(『シュメル ―― 人類最古の文明』から引用・再構成)。

 

 そして、〈文明〉には強力な伝播力がある。

 「ある人間集団が、ある特定の時点において他の人間集団に影響を及ぼすのは、相対的な優位を保持しているからである。いくつもの地域の住民について研究する歴史家の念頭に最初に上がる優越性の要素とは、農耕である。農耕それ自体も、粗放な形態から集約的形態へといくつもの序列がある。農耕の獲得は、巨大な人口の出現を可能にし、それはそれ自体で支配の要因となる。農耕に次いで、都市、青銅、鉄、文字が到来する。

 『文明』の四つの基本要素(農耕、都市、冶金、文字)は、それぞれそれ自体に本質的に内在する拡大の潜在力を秘めていることは認めなければならない。

 歴史の現実においては、農耕によって人口密度が増大し、都市と文字によって組織立てられ、技術的・軍事的に強力になった民族は、周辺の人間集団に影響力を揮い、取って替わることができた。その上、淘汰が起こらなかったところでは、これらの民族は、自分たちの成功の元となったもの(農耕、都市、冶金、ないし文字)ばかりでなく、どれもがより多くの効率性に結びつくと先見的に想定してはならないような他の革新も、被支配者たちに伝えることがありえたのである。支配者がもたらした社会形態であるという威信だけで、それらの要素が受け入れられてしまったことは説明できる」(E・トッド)。