断章371

 思想家という看板を掲げながら生温いことだけを書きつらねている昨今の日本「知識人」を見ると、「危険ではない思想など、思想の名に値しない。危険なまでに純粋、危険なまでに真剣、危険なまでに心を打つ、これぞ思想家というものです」(オスカー・ワイルド)と言いたくなる。しかし、思想(理論)にアタマを乗っ取られると、寄生虫に乗っ取られた「ゾンビ・カタツムリ」や「オウム真理教」に入信した東大エリートのように破滅にまっしぐらである。困ったことに、「危険なまでに純粋、危険なまでに真剣、危険なまでに心を打つ」思想ほど、アタマを乗っ取る魔力を秘めている。

 

 戦前日本の「左翼」インテリも「理論信仰」(引用者注:理論を無批判に受け入れ、物神化する精神)の“アタマでっかち” ―― 体につりあわず頭が大きいこと。また、上の部分が不釣合いに大きいこと。転じて、知識や理屈ばかりで、行動が伴わないこと。そういう人たち ―― だった。神なき時代の彼らにとって、「現実的人間」について語り、「資本システム」の具体的動態を分析し、各国の政治について書くマルクスは、「理論信仰」の対象としてうってつけだった。

 「マルクス主義は、私たちにとって単に社会変革の議論ではなかった。それは、『我らいかに生くべきか』を私たちに教えてくれる倫理的な規範であり、さらには宗教的な何者かでさえあった」(井上 義男)。

 「昭和初期のマルクス主義の『流行』は、今にして思えば信仰であった」(松田 道夫)。

 「現在のこの苦しい状況はどうして生まれ、どうしたらわれわれはそこから救い出されることができるのか、その方途を熱心に尋ね求めるような心理状況を宗教的とよぶとすると、マルクス主義は第一義的にはまさしく宗教的なものとして受けいれられていった、と言ってよいでしょう。この現象は私が三高の生徒だったとき、すでに現れていました」(大塚 久雄)。

 

 戦後日本には、それが引き継がれ、そのため日本共産党と同伴「知識人」たちは、我が世の春を謳歌できた。

 なので、「スターリン批判」(引用者注:1956年のソ連共産党第20回大会で、フルシチョフによりスターリン執政期における政治指導や粛清の実態が暴露された)に対しても、「ハンガリー動乱」に対しても、きわめて鈍感だった。

 「日本共産党は、1956年3月に開かれた第5回中央委員会総会でソ連共産党第20回党大会について議論をして大会決定を学習することを決めたが、この時点ではまだフルシチョフ報告の存在を把握していなかった。ソ連共産党第20回大会には、北京機関から袴田 里見(旧国際派)と河田 賢治(旧所感派)が参加していたが、フルシチョフ報告の閲覧は許されていなかった。袴田と河田はその足で北朝鮮に渡り朝鮮労働党第3回大会(1956年4月23~29日)に参加した後、北京でフルシチョフ報告の情報を手に入れたので、在北京のソ連大使館に行き、パーヴェル・ユージン大使の許可を得て2日間かけて閲覧したという。しかし、アメリ国務省による秘密報告の公表以後も、日本共産党はこれは外国の党の問題であるとして正面切っての批判は避けた」(Wikipediaを再構成)。

 それに満足できない少数の「知識人」・学生たちは、特権的な党=国家官僚が、「社会主義国家」を臆面もなく自称する体制を「スターリン主義体制」と規定し、「マルクスに帰れ!」を合言葉に独自の歩みを開始した。

 

 しかし、彼らもまたインテリとしてマルクス“信仰”のシッポをつけており、マルクスの思想(理論)の「結論」は、未来の共産主義は「地上の楽園」であるというユートピア主義(それはディストピアを生む)であることを理解していなかった。

 マルクスは、「資本システム」は必然的に崩壊する運命にあり、その後には共産主義社会が来るとしたが、その共産主義社会のイメージは、まるで隠居した大金持ちのお気楽な“山荘暮らし”である。