断章378

 「大所高所から日本の現実を鋭く批判している」と主観的に思い込んでいる「左翼」知識人たちは、実際には教壇・論壇の一段高い所から(キツイ・キタナイ・キケンな労働現場とはかけ離れた安全圏から)、現実を叱責(しっせき)しているだけの“社会的余計者”である。彼らはマルクス(『資本論』)を称賛するが、多くは、「自分の姿をマルクスに投影してそれを称賛するというナルシシズムの泥沼」に落ちている愚か者にすぎない。

 

 マルクスは、ヘーゲル左派を批判して「現実的諸個人」について語るが、その「現実的諸個人」は、いまだに“思弁的”な「現実的諸個人」にすぎない。有限な資源を巡って争う、有限の生命を生きている気力・体力・知力において百人百様の「多種多様な具体的諸個人」ではないのである。

 だから、マルクスの“共産主義社会”論は、「プロレタリアートは自らを解放することで全人民の人間的解放を実現」した、「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つの共同社会」という 、ユートピア(地上の楽園)なのである。

 実現できるはずのないユートピアを実現しようとする「前衛党」は、彼らが約束するユートピアを信じない者たち、「前衛党」に従わない者たちをどうするだろうか?

 それは、「思想学習」「整風運動」の無理強いとなり、あるいは「強制収容所」送りであり、さらには「粛清」「総括」「殲滅」という殺人になった。それが、20世紀の赤色全体主義共産主義マルクス主義)のリアルである。

 

 「党中央による集中的・統一的指導は党の指導の最高原則であり、それを強化・擁護することは全党共通の政治責任」。

 「党の指導を堅持するには、全党の中央への服従を確保しなければならない」。

 「個人主義・分散主義・自由主義・自己本位主義・事なかれ主義などを防ぎ、それに反対する」。

 「面従腹背する者を一掃し、全党が政治的立場、政治的方向、政治的原則、政治的道筋において党中央と高度の一致を保つ」。

 中国共産党は、こう宣言している。