断章384

 ロシア革命後、左翼思想の玉座を占めたのはマルクス・レーニン主義だった。なにしろ、ロシア革命を“光背”とする巧妙かつ組織的なプロパンガンダをした。

 なので、アナキズムWikipediaによる注:権力に基づくヒエラルキーに反対する政治哲学と運動のこと。アナキズムは、国家を望ましくなく不必要で有害なものであると考える思想であり、国家の廃止を呼びかける。無政府主義とも呼ばれる)などはすっかり隅のほうに追いやられた。

 アナキズムは、個人的イニシアチブ(バクーニン、大杉 栄など)に依存的で、思想的政治的組織的な継続性と組織性を欠く。だから、全体主義や軍部独裁との戦いで勝利することはむつかしい(スペイン内戦の敗北を見よ)。

 

 しかし、ローザ・ルクセンブルクが、レーニンの恣意的かつ強権的な統治を知った後に、「普通選挙、出版・集会の無制限の自由、自由な意見の競合、これらがなければ、どの公的制度でも生活は死滅し、官僚層だけが活動的な要素である見せかけの生活となるだろう。公的な生活は徐々に眠り込み、無尽蔵なエネルギーと無制限の観念論を持つ数ダースの党指導者が指導し、支配し、彼らのうちの1ダースの突出した頭脳が現実に指揮を執り、時々労働者層のエリートが集められ、指導者の演説に喝采し、提起された諸決議に全員一致で賛成する。だから、つまるところ徒党政治 ―― 独裁ではあるが、プロレタリアートの独裁ではなく、一握りの政治家の独裁、すなわち純ブルジョワ的な意味での、ジャコバン支配の意味での独裁である」と述べる何十年も前に、「マルクス主義者による独裁」に警鐘を鳴らしていたのは、アナキストだった。

 

 アナキズムからするマルクス主義批判は、理論的に脆弱(ぜいじゃく)な「印象論」にすぎないとみなされてきた。

 けれども、コミンテルンの権威に拝跪(はいき)した日本共産党系「左翼」学者たちが、「スターリン首相は、1917年帝政ロシアから勤労大衆を解放し、第二次大戦ではナチス・ドイツの侵略から祖国を防衛し、今日では社会主義建設の、とくに人類が夢にも考えおよばなかったほど大規模な自然改造の大事業によって、国民に豊かな生活と未来の保障とをあたえている。彼は一部に伝えられるような『策謀に富む政治家』ではない。彼はきわめて独創性に富む理論家である。しかも、いわゆる学者の空理をもてあそぶものとはまったく異なり、その理論はつねに現実的で、ただちに勤労大衆解放の武器となるものである。

 最近わが国労働者、農民および広範なインテリゲンツィアのあいだに、マルクスエンゲルスレーニンの労作をあらそって読む勢いは、巨大なうねりのように高まってきている。そして、これら先人の天才的労作も、わがスターリンの理論をまたなくては、何よりも痛切な今日の世界の現実への適用に、誤りなく生かすことはむつかしいであろう」(スターリン全集刊行会代表者、細川 嘉六・平野 義太郎)と、スターリンを絶賛していたことを考えれば、アナキズムによる思想的にマヌケで政治的にトンマな自称「科学的社会主義」への批判は道理あるものだった。

 

【参考】

 ローザ・ルクセンブルクとは、―― 1871年3月5日、当時ロシア支配下にあったポーランドのザモシチに、同化ユダヤ人の商人の末娘として生まれる(1870年生まれの説もある)。高校時代より社会主義運動に加わり、18歳のとき、逮捕の危険を逃れてスイスへ亡命、チューリヒ大学で学びながらポーランドの運動のためにはたらき、学位取得後にドイツ市民権を取得してベルリンに移住。以後、本格的に政治活動・文筆活動をおこなう。1904年以降は幾度となく投獄されながらも、ドイツ社会民主主義陣営の政治理論家・革命家として活躍し、とくに第一次世界大戦が始まって社会民主党が戦争支持にまわってからは、党内最左派として反戦活動に力を注ぎ、そのため長い獄中生活を強いられた(みすず書房著者紹介)。