断章425

 わたしには疑問があった。

 「ブチャで虐殺の証拠を集めるべく調査している国際人権団体によると、目撃者の証言として『公開処刑』が行われていたといいます。広場に40人ほどの住民が集められた後、ロシア軍は5人の男性をひざまずかせ、そのうちの1人を後頭部から銃撃。その際、司令官は、こんな言葉を口にしていたというのです。ロシア軍司令官:『これは、汚れだ。我々は、汚れを清めに来た』」(2022/04/06 テレ朝ニュース)という報道を聞いたときだ。

 「我々は、汚れを清めに来た」だって? いったいどういう意味なのか?

 

 その疑問は、4月7日のZAIオンラインでの橘 玲(たちばな あきら)による、ティモシー・スナイダーの『自由なき世界:フェイクデモクラシーと新たなファシズム』(慶應大学三田出版会)の紹介記事で解けた。有益な記事なので、長くなるが、再構成・引用したい。

 

 「プーチンによるウクライナへの全面侵攻を予測できた専門家はほとんどいなかったというが、歴史家のティモシー・スナイダーは間違いなく、その数少ない例外の一人に入るだろう。

 2014年、ロシアはクリミアを占拠し、ウクライナ東部のドンバス地方に侵攻したが、欧米諸国は限定的な経済制裁に止め、その4年後、ロシアはサッカー・ワールドカップを華々しく開催した。ヨーロッパ(とりわけドイツ)はロシアにエネルギー供給を依存し、中国の台頭に危機感を募らせたオバマ政権もロシアとの対立を望まなかった。

 『クリミアはソ連時代の地方行政区の都合でウクライナに所属することになっただけ』『ドンバス地方を占拠したのは民兵でロシア軍は関与していない』などの主張を受け入れ、『ロシアはそんなに悪くない』とすることは、誰にとっても都合がよかったのだ。

 だがスナイダーは、こうした容認論を強く批判した。プーチンのロシアは『ポストモダンファシズム(スキゾファシズム)』に変容しつつあるというのだ。(中略)

 スナイダーは、プーチンが行なっているのは歴史の改竄と国民の洗脳で、そこから必然的に『自由なき世界』が到来するのだと予見する。

 スナイダーによれば、現代のロシアを理解するうえでもっとも重要な思想家はイヴァン・イリインだという。ロシア以外ではほとんど知られていないこの人物は、1883年に貴族の家に生まれ、当時の知識層(インテリゲンチャ)の若者と同様にロシアの民主化と法の統治を願っていたが、1917年のロシア=ボリシェビキ革命ですべてを失い、国外追放の身となる。その結果、理想主義の若者は筋金入りの反革命主義者になり、ボリシェビキに対抗するには暴力的手段も辞さないという『キリスト教ロシア正教ファシズム』を提唱するようになった。

 イリインは忘れられたまま1954年にスイスで死んだが、その著作は、ソ連崩壊後のロシアで広く読まれるようになり、2005年にはプーチンによってその亡骸がモスクワに改葬された。プーチンは、『過去についての自分にとっての権威はイリインだ』と述べている。

 イリインの思想とはなんだろう。それをひと言でいうなら、『無垢なロシア(聖なるロシア)の復活』になる。イリインの世界観では、宇宙におけるただ一つの善とは『天地創造以前の神の完全性』だ。ところがこの『ただ一つの完全な真理』は、神がこの世界を創造したとき(すなわち神自身の手によって)打ち砕かれてしまった。こうして『歴史的な世界(経験世界)』が始まるのだが、それは最初から欠陥品だったのだ。

 イリインによれば、神は天地創造のさいに『官能の邪悪な本性』を解放するという過ちを犯し、その結果、人間は『性に突き動かされる存在』になった。性愛を知りエデンの園を追放されたことで、人間は存在そのものが『悪(イーブル)』になった。だとしたらわたしたちは、個々の人間として存在するのをやめなければならない。興味深いのは、イリインが1922年から38年までベルリンで精神分析を行なっていたことだ。この奇妙な神学には、明らかにフロイトの影響が見て取れる。

 人間が存在として悪だとしても、いかなる思想も自分自身を『絶対悪』として否定することはできない。イリインがこの矛盾から逃れるために夢想したのが、『無垢なロシア』だった。邪悪な革命政権(ソ連)を打倒しロシアが『聖性』を取り戻したとき、世界は(そして自分自身も)神聖なものとして救済されるのだ。

 イリインは、祖国(ロシア)とは生き物であり、『自然と精神の有機体』であり、『エデンの園にいる現在を持たない動物』だと考えた。細胞が肉体に属するかどうかを決めるのは細胞ではないのだから、ロシアという有機体に誰が属するかは個人が決めることではなかった。こうしてウクライナは、『ウクライナ人』が何を言おうとも、ロシアという有機体の一部とされた。(中略)

 イリインが唱えたのは『永遠に無垢なるロシア』という夢物語であり、『永遠に無垢なる救世主』という夢物語だ。こうして(仮想の)ロシアを神聖視してしまえば、現実世界で起きることはすべて『無垢なロシアに対する外の世界からの攻撃』か、もしくは『外からの脅威に対するロシアの正当な反応』でしかなくなる。イリイン的な世界では、『ロシアが悪事をなすわけはなく、ロシアに対してだけ悪事がなされるのだ。事実は重要ではないのだし、責任も消えてなくなってしまう』とスナイダーはいう。(中略)

 革命直後のレーニンらは、『自然が科学技術の発展を可能にし、科学技術が社会変革をもたらし、社会変革が革命を引き起こし、革命がユートピアを実現する』という科学的救済思想を唱えた。だがブレジネフの時代(1970年代)なると、欧米の自由主義経済に大きな差をつけられたソ連は、こうした救済の物語を維持するのが困難になってきた。

 ユートピアが消えたとしたら、そのあとの空白は郷愁の念で埋めるしかない。その結果、ソ連の教育は、『よりよい未来』について語るのではなく、第二次世界大戦(大祖国戦争)を歴史の最高到達点として、両親や祖父母たちの偉業を振り返るように指導するものに変わった。革命の物語が未来の必然性についてのものだとすれば、戦争の記憶は永遠の過去についてのものだ。この過去は、汚れなき犠牲でなければならなかった。

 この新しい世界観では、ソ連にとっての永遠の敵は退廃的な西側文化になった。1960年代と70年代に生まれたソ連市民は、『西側を“終わりなき脅威”とする過去への崇拝(カルト)のなかで育っていた』のだ。

 マルクス・レーニン主義とイリインの思想は合わせ鏡のような関係で、だからこそロシアのひとびとは、ソ連解体後の混乱のなかで、救世思想のこの新たなバージョンを抵抗なく受け入れることができたのだ。(中略)

 (引用者注:このイリインの思想にレフ・グルミョフの『ユーラシア主義』とアレクサンドル・ドゥーギンの『ロシア的ナチズム』が合流して、『ロシア・ファシズム』が生まれたとスナイダーは言う)

 プーチンは、2004年にウクライナEU加盟を支持し、それが実現すればロシアの経済的利益につながるだろうと述べたと、スナイダーは指摘する。EUの拡大は平和と繁栄の地域をロシア国境にまで広げるものだと語り、2008年にはプーチンNATOの首脳会談に出席している。ところが同年のジョージア(グルジア)侵攻が欧米から強く批判されると、一転して2010年には『ユーラシア関税同盟』を設立する。(中略)

 プーチンは、ウクライナについて、こう述べた。『我々は何世紀にもわたり共に暮らしてきた。最も恐るべき戦争にともに勝利を収めた。そしてこれからも共に暮らしていく。我々を分断しようとする者に告げる言葉は一つしかないのだ ―― そんな日は決して来ない』。

 こうした世界観・歴史観からは、クリミアやウクライナ東部の占拠だけでなく、今回の全面侵攻も『無垢なるロシア』を取り戻し、世界を救済し、神の完全性を復活させる壮大なプロジェクトの一部になる。

 そして今起きていることを見れば、スナイダーがこのすべてを予見していたことは間違いない」。

 

 ブチャには、他の兵隊よりも濃緑色の軍服を着た部隊がいたという。もし彼らが、旧ソ連国家保安委員会(KGB)の後継機関である連邦保安局(FSB)の軍部隊やプーチンの手駒である民間軍事会社ワグネルなら、プーチンと同じ世界観・歴史観武装しており、「無垢なるロシアを取り戻し、世界を救済する」ために、ウクライナの「汚れを清めに来た」と言っても不思議ではないのである。