断章435

 日本共産党が1922年7月15日の創立から100年目。それが今年2022年である。なにか書かずにはおられまい。だって、ネトウヨだもの。すでに、中北 浩爾『日本共産党 ―― 「革命」を夢見た100年』も出版された。

 

 けれど、わたしは困っています机の前で(「わたしは泣いています♪」りりィの曲で)。

 というのは、第一に、移り気な性格。第二に、子ども時代の流転生活で染みついたクセ。第三に、浮き沈みした浮世暮らしの習い性。それらが積み重なって、まともな読書力・読解力が無い。さしあたり、系統的集中的な読書計画すら立てることができない。

 日本共産党について書くとなれば、何をおいても、マルクス・エンゲルスを読まなければと思う。その前に、まずヘーゲルアダム・スミスとサン=シモンはおさえておかなければと思う。すると、カントとジョン・ロックとルソーもいるかな、フォイエルバッハリカードとブランキも外せないと思う。レーニンなら、プレハーノフとカウツキーも読まなければと思い、スターリンなら、ブハーリントロツキーは絶対いるよね、と思ってしまう。発散的かつ遡及的な思いつき読書で収拾がつかなくなる。だって、低学歴のネトウヨだもの。

 

 かつて、わたしたちは、こう聞かされた。

 「資本主義的疎外に対する労働者的直感にふまえて、主体的に学び闘う中で革命的プロレタリアートとしての階級的自覚を育てなければならない」と。

 

 労働者的直感!

 いま、わたしは思う。それを軽んじてはならない。

 たとえば、1917年、革命直後にロシアのペトログラードソビエトを訪問したイギリス労働組合代表が、ペトログラードソビエトを指導していた「インテリ」たちは旋盤や鋤(すき)に触れたことのない“白い手”をしている、と指摘したこと。

 たとえば、日本共産党であれ反日共系左翼であれ、指導部を占めているのは、一流大学出身者であること。彼らは、あれほどまでに「疎外」を語り「貧困」を語るけれども、彼ら個人は、本当はこの世の辛苦を知らないな、と思ったこと。

 

 パラパラと見た限りでは、中北 浩爾の『日本共産党 ―― 「革命」を夢見た100年』は、掘り下げが足りない(「索引」が無いとかの話ではない)。中北もまた、日本共産党が「革命を通じた平等で公正な社会の実現を一貫して追求している」と、心のどこかで思っているのではないか? 学者たちはいつも、「美しい言葉」にだまされる。だから、言っておこう。

 マルクスの、マルクス主義の、マルクス・レーニン主義の、毛沢東思想の、チュチェ思想の“理論と実践”、とりわけ実践の具体的実証的分析(洞察)を踏まえなければ、日本共産党研究も浅いものになるのだ。

 

 ついでに言っておこう。『日本共産党 ―― 「革命」を夢見た100年』の257ページには、日本共産党の本当の姿を如実に示す一枚の写真がある。「東大にゲバ棒を手に集まった民青系学生たち」という写真である。レーニン「党組織論」は、生き続けている。インテリ指導部は一般党員を言いなりに利用できる。

 インテリ指導部は言う。「今は、ソフトにソフトに」。だが、やがては・・・。