断章447

 かつて“社会主義”(“社会主義国家”、“社会主義体制”)を信仰するイデオロギーの帝国があった。その中心には、共産党の大伽藍がそびえたっていた。ガランドウだから中身は空っぽなのだが、そこで発せられる美しい言葉・声明・宣言によって救われたい信者たちのお参りは、ひきもきらず門前市を成した。

 「私が学生になった1980年代の前半は、…著名な文系学者の大部分、理系学者も無視できないくらいの割合が、『マルクス』と関わりを持っていた。経済学者はマルクス経済学、歴史学者唯物史観、哲学者は弁証法や疎外・物象化論は一応知っておかないと、一人前扱いしてもらえないような雰囲気があった。ポストモダン系の思想を研究している人も、マルクスのことはマルクス主義者以上に知っている風を装わないといけなかった」(仲正 昌樹)ほどである。

 

 マルクス・レーニン主義(教) ―― 選挙に差し障(さわ)りが出ると、この用語は、「科学的社会主義」に変更された。なぜなら、いまや日本共産党員の頭の中では、どうすれば次の選挙で得票数が増えるのかが一番大きな場所を占めているからである ―― の司祭のひとり、不破 哲三の1986年3月の日本共産党中央委員会と神奈川県委員会共催の「労働学校」における“説教”を聞いてみよう。

 完全に非現実的な“説教”なら、聴衆に聞き入れられることはないであろう。だから、どんな“説教”であれ、部分的には正しいことをふくんでいる。たとえば、この「労働学校」の“説教”では、日本の大企業による下請けのしぼり方がキツイと言っている。間違いなく、そのとおりである。しかし、そうした正しい部分を切り取るだけでは、この“説教”の中心(基本的な考え方や見方)を読み誤ることになるだろう。

 

 主題は、「資本主義と社会主義」である。こう言っている。

 「今から50年前、1936年。その時には、ソ連に最初の社会主義国がすでに成立していました。(中略)

 それからさらに50年たった今日ではどうでしょうか。社会主義国はもはやソ連だけではなく、ヨーロッパにもアジアにも、ラテンアメリカにも、社会主義の道にふみだす国ぐにが生まれました」。

 「資本主義というのは、人間の歴史のうえでは、封建時代などにはできなかったような経済力の大発展を実現するところに役目があるのですが、もうここまでくると、日本の国の経済や国民の暮らしに責任を負うこともできなくなっているし、世界の経済の問題についても、大局的にいえばもう資本主義の枠内ではおさめる能力がないといっていいところまで実はきている」と、不破は宣言する。

 

 そして、ご託宣(ありがたい仰せ)が下される。

 「わが党は、日本が社会主義の道にふみだすときには、重要産業の大企業の国有化によって、社会主義経済の骨組みとすることを提案しています」。

 「社会主義になれば、本来なら、いまの資本主義のもとで起きているような経済上のムダや不合理は、基本的にはなくせるはずです。(中略)

 また、社会主義の社会では、働く者の能力を大いに自由にのばせる条件が保障されますから、その面からいっても、人間の生産力をもっともっとすばらしい勢いで発展させる道もひらかれるはずです」。

 

 わたしは、これを「はずです」理論と呼ぶことにする。そして、わたしは予言する。

 特権的な赤色党官僚が支配する社会主義は、資本主義とほとんど変わらない搾取と収奪、抑圧と差別、格差と疎外がはびこり、さらにあらゆる居住街区・企業には共産党支部公安警察の出先があって、監視と密告を奨励する陰鬱(いんうつ)な社会に「なるはずです」と。