断章517

 ここ最近、日本共産党に関する本が何冊か出版されている。ただし、日本共産党創立100周年を寿(ことほ)ぐ本ではない。

 たとえば、『志位 和夫委員長への手紙』では、日本共産党京都府委員会の専従・役員を経て、その後も地域の共産党後援会の会長を務める党歴60年の鈴木 元が、「2021年・2022年の国政選挙を経て見えてきた問題点を総括し、意見の相違を前提とした党運営、多数決の定着と党首公選、踏み込んだ安全保障政策議論といった改革を提案し、党新生の道を提示する」(発行元紹介文)。「志位委員長は直ちに辞任して、党首公選を行って選ばれる新しい指導部に共産党の改革を委ねるべきだ」(同前)と主張しているそうである。

 

 わたしは、芸人ねづっちの嫁さんを“召喚”したい。

 党首公選? 「ちっちぇー! おめえの器は、おちょこだな」。

 問題は、そこではない。

 問題は、日本共産党の根本思想である「科学的社会主義」(注:彼らのマルクス主義)は、本当に労働者階級解放の思想であるのか、それとも共産主義(=地上の楽園)を夢見るインテリの“ドグマ”にすぎないのか、ということである。

 

 日本共産党が結成される少し前、19世紀末頃、マルクス主義は世界中の社会主義運動において主流になりつつあった。当時、マルクス主義の盟主の地位を占めていたのは、ドイツ社会民主党だった。そのドイツ社会民主党に、エドゥアルト・ベルンシュタインがいた。ベルンシュタインは、カール・カウツキーとならぶ「エンゲルス学校」の優等生であり、エンゲルスの遺産管理人に指名されるほどの重要人物だった。

 ベルンシュタインは、1896年から1898年まで、ドイツ社会民主党の“修正主義論争”を巻き起こすことになった「社会主義の問題」と題する一連の論文を発表し、古典的マルクス主義を批判した。

 「ベルンシュタインのマルクス批判は多岐にわたるが、エルフルト綱領と関連する部分だけをあげるとつぎのごとくである。

⑴ 資本主義が発展するにつれてプロレタリアートブルジョワジーおよび地主階級への階級分化が進んでゆくというのは事実に反する。なかんずく農業において資本家的経営(資本家が地主から土地を借り、労働者を雇って農業生産を行なうイギリス型農業)はみられず、逆に小土地所有の小農経営のほうが優勢である。

⑵ 資本蓄積にともなって資本の集中・集積が進み、資本家階級はひとにぎりの少数者になるという予測も事実に反する。事実は中小企業数の増大を示している。

社会主義革命の必然性を説くうえで要の位置にある労働者階級の窮乏化法則も妥当しない。労働者の実質賃金は上昇したからである。

⑷ 恐慌がますます激化するという主張に対しては、ベルンシュタインは、恐慌はますます緩和されてきている事実を突きつけて反対する。

⑸ 以上の事実にもとづいて、彼は、マルクスが構想していたような暴力革命型の先進国革命はもはや時代おくれであって、先進国革命は議会制民主主義を通して漸進的に社会主義に向かってゆくべきであると主張した」(『マルクス』、1982)。

 

 ベルンシュタインの問題提起は、「資本主義の根本矛盾は何ら変わっていない。資本主義の自由主義段階から帝国主義段階への推転にともなって、矛盾の発現形態が変化しただけだ」として、深く検討されることなく葬り去られたし、ベルンシュタイン本人も、激動する情勢のなかで、それを了とした。

 権威主義教条主義・理論信仰に染められたマルクス主義者たちは、みんな、「空想的な連関においてでなく、それ自身の連関において把握された諸事実と一致しないあらゆる観念論的諸幻想を、容赦なく犠牲にしなければならない」ということを、忘れはてた。

 そして、マルクス主義は教義(ドグマ)になった。

 

 今なすべきことは、「党首公選をすれば日本共産党は良くなる」という幻想をふりまくことではない。敢然と、日本共産党の弔鐘(とむらいの鐘)を鳴らすことである。

 

 「町は今 眠りの中 あの鐘を鳴らすのは あなた 人はみな 悩みの中 あの鐘を鳴らすのは あなた♪」(和田 アキ子)

 共産党は今 眠りの中 弔鐘を鳴らすのは あなた 共産党員はみな 悩みの中 弔鐘を鳴らすのは あなただ!