断章543

 ロシアの危機を何によって解決すべきか? 政府が解決できないとすれば、どうすればいいのか?

 革命(思想)は、空から降ってはこない。

 ある時代の、ある土地の、歴史と社会のなかで生まれ成長し腐朽する。あるいは、別の時代の、別の土地のものが、伝播し模倣され変容する。

 

 「1860年のはじめに、(亡命先の)ロンドンのゲルツェンのところに若い男がやってきた。25歳のこの男は、ニコライ・ A ・セルノ=ソロヴィエーヴィッチといってペテルブルクの官吏の子であった。早くからプルードン、サン・シモンなどのフランス社会主義を学び、ゲルツェンの愛読者であった。クリミア戦争の敗北に大きなショックをうけた彼は、官吏となって上からの改革に大きな期待をかけていた。しかし、皇帝への直接のアピールも受けいれられず、官僚制度の内面の腐敗にも絶望した。社会主義以外にロシアの救いはありえないと確信するにいたった。チェルヌイシェフスキーの経済学に深く動かされて経済学を学ぶため1858年に辞職してヨーロッパに行った。農村共同体を基礎にして、国家の経済援助でロシア特有の体制をつくるというのが彼の意見であった。

 ゲルツェンとオガリョフは、この俊英な経済学者に多くの期待をよせ、ロシアのなかに革命組織を作る相談をはじめた。これが、秘密の革命組織(第一次)『土地と自由』である ―― オガリョフが作成した党規約では、所属細胞の5人以外の顔を知らぬというイタリアのアナーキストのマッチニの組織論を採用した。(中略)

 政府のスパイ網はゲルツェンの周囲にもはられていて、多数の手紙をもった連絡員がロンドンを出発したという知らせを(ロシア本国に)打電してきた。1862年7月、この連絡員の逮捕によって32人が検挙されて、(第一次)『土地と自由』の中枢部は潰滅した」(松田 道雄『世界の歴史22 ロシア革命』)。

 

 あるいは、

 1861年9月のある日、ロシアの青年・学生は、「わかい世代へ」と題する宣言を受けとった。

 「君たち、人民の指導者よという呼びかけで、ビラは、君主制の廃止をうったえている。

 〈われわれを苦しめ、知的にも、市民的にも経済的にも発展することを妨げている権力は、もはや必要がない。1848年がヨーロッパで失敗だったことは、わが国でそれが不可能だということではない。経済や土地関係がヨーロッパとロシアではちがう。ヨーロッパには農村共同体がない。われわれはおくれているが、それがわれわれの救いだ。ヨーロッパの不幸はわれわれの教訓だ。われわれには新鮮な力がある。この力で新しい歴史をつくっていけばいいので、ヨーロッパのまねをすることはない。信じなければ救われない。われわれはわれわれの力を深く信じる。われわれの欲するのは、合理的な権力、言論の自由、検閲の廃止、人権の尊重、働く者の土地所有権だ。われわれは町人、ブルジョワがなくなってほしい。ロシアの希望は、あらゆる層の若い世代からなる人民の党だ。すぐ行動にうつろう。一分も失ってはならぬ。〉

 ここに語られている革命の宣言は、打倒すべき目標をあきらかにし、革命の党の必要をうたっている点で、画期的なものである。指導はインテリゲンチャがしなければならぬが、党と人民との関係、革命後の革命権力の形態についてはまだふれていない。しかし、ヨーロッパのあとを追う必要がないことは、はっきりと宣言されている。しかも革命はいそがねばならない。農奴解放の年にだされたこの革命の宣言は、それ以後の革命の綱領のキイノートになる」(同前)。

 

 あるいはまた、

 「ピョートル・G・ザイチュネーフスキーは、モスクワ大学の数学科に在学中、学生運動に参加して革命家としてのスタートをきった。

 ・・・のちに禁止図書の秘密出版をしているサークルに加入し、文盲をなくする運動としての私設日曜学校で社会主義宣伝にたずさわった。それが警察長官ドルゴルーコフの命令で禁止されると、彼は農村に行った。・・・彼は農民を至近距離で見た。・・・革命は思想だけの問題ではない。革命は組織せねばならぬ。農民にその力がなかったなら、教育を受けた人間がやるしかない。

 日曜学校で不穏当な宣伝をしたかどで、彼は逮捕された。だが、モスクワの監獄はいたってルーズで、そのなかで彼に『若いロシア』を書かせ、外に持ち出させて、印刷させてしまった。1862年の5月ごろから、このパンフレットは、疑いをそらすためペテルブルクでばらまかれ、急速に地方に広がった。

 『若いロシア』は、革命の党の宣言である。それは今まで出された秘密組織の宣言の中で一番激しい調子のものだった。

 〈ロシアはその存在の革命期に突入した〉という書き出しで、いま闘争が行われているのは、ふたつの党のあいだであることを明らかにする。ふたつの党とは何か。ひとつは虐げられた者の党、人民である。他は皇帝の党である。自由主義者憲法を要求したりしているが、じつは皇帝と所有につながっている。人民の革命運動が所有に向けられているのを知ると、人民の蜂起に自分の代表者ツァーリを押し出してくる。これが皇帝の党である。

 ゲルツェンは尊敬すべき文筆家だが、1848年の革命の失敗に驚いて力による変革を信じなくなってしまった。われわれは現体制を倒すためには、 1790年代のジャコバンが流した血を恐れない。いまの専制は諸州の共和的連合に変わらねばならぬ。そのさい、すべての権力は国民会議と州会議の手にぞくさねばならぬ。

 『若いロシア』のもっとも特徴的なところは、権力獲得後の政府の性質を決めているところにある。

 〈政府の先頭に立つ革命党は、革命の成功したあかつきは、現在の政治的中央集権制(行政的中央集権制でない)を確保せねばならぬ。それによって経済的、社会的生活の基礎をできるだけすみやかにつくるためにである。独裁権力を保持して何ものにもたじろいてはならぬ。総選挙も政府の影響下におこなって現体制の護持者を入れてはならぬ。〉

 ・・・権力掌握後の革命党の独裁の思想が20歳の青年によって、ロシアの革命家に手渡されたのである。『若いロシア』は党として成長しなかったが、ロシア・ジャコバンの思想は成長を続ける。ザイチュネーフスキーの仲間のサークルには、やがてこの理論を大成する若いトカチョフがいた。ザイチュネーフスキーが逮捕と流刑を繰り返しながら自分の周囲に育てたサークルのなかから、テロリストも出たが、ボリシェビキになる人間も育った」(同前)。