断章215

 日本共産党は、結党以来、半世紀以上の長きにわたって、旧・ソ連邦や中国や「北朝鮮」を「社会主義国」だとプロパガンダした。それらの国に「言論表現の自由」「学問の自由」は、微塵もなかった。そんなことは気にも留めず、日本共産党系「左翼」学者は、日本での「学問の自由」を隠れ蓑(みの)にして、党派的な(マルクス主義の)プロパガンダをしてきたのだ。

 

 日本共産党の尻馬に乗り、「反知性主義」「反教養主義」という“用語”を愛用する者たち。例えば、白井 聡(とそのお友達たち)は、みんな差別主義者である。たまたま金か銀のスプーンを銜(くわ)えて生まれてきたので高等教育を受けたにすぎない。にもかかわらず、経済的な事情で進学できなかった中卒・高卒・夜間大学卒にあからさまな学歴差別をする連中である。

 彼らの実態は、日本共産党のシンパだったり、八ヶ岳や軽井沢に山荘をもっている「学界」エリートだったり、シャンパン・リベラルである(韓国のチョ・グクの同類である)。

 口先で「正義」「公正」「平等」「格差是正」、あるいは「学問の自由」などの聞こえのよい主張をし、自分の支持層に対する人気取りのパフォーマンスに余念がない二枚舌で偽善的な「左翼」であり、リベラルである。

 

 以下は、わたしのための、後日のための備忘録である。2020/10/09~16の『現代ビジネス』オンライン、長谷川 幸洋の記事からの引用である。

 

 「任命を拒否された立命館大学の学者がテレビで『任命に手を付ければ、政権が倒れる』などと発言しているのだ。普通なら『私のような浅学非才の人間が選ばれるとは、恐縮です』という場面だろう。それを『オレさまを拒否するとは何事だ。政権が倒れるぞ』とは恐れ入った、というほかない。この学者はその後もマスコミに出てきて、政府批判を続けている。そんな勘違い発言を続ければ続けるほど、世間は共感するどころか、日本学術会議がいかに『浮世離れした存在』であるか、を理解するに違いない」。

 

 「日本学術会議問題が興味深い展開になってきた。野党や左派系マスコミは政府を追及しているが、逆に、会議のデタラメぶりが露呈する一方なのだ。まさに『藪蛇』『ブーメラン』状態である。どうやら、会議の抜本的な組織改編は避けられそうにない。

 日本学術会議の新会員問題を最初に報じたのは、日本共産党の機関紙『しんぶん赤旗』だった。10月1日付の『菅首相、学術会議人事に介入、推薦候補を任命せず』という記事で『学問の自由に介入する首相の姿勢が問われます』と首相を追及した。

 マスコミ各社が一斉に追随し、立憲民主党など野党は『菅政権のモリカケになるかも』と意気込んでいる。だが、そうはなりそうもない。それどころか、むしろ学術会議側のダメージが広がっている。たとえば、赤旗が指摘した肝心の『学問の自由』問題である。

 日本学術会議が学問の自由を守るどころか、まったく逆に、学問の自由を侵害した例が暴露されてしまったのだ。それは、北海道大学の奈良林直名誉教授が10月5日、国家基本問題研究所への寄稿で明らかになった。(中略)

 北大は2016年度、防衛省の安全保障技術研究推進制度に応募し、微細な泡で船底を覆い船の航行の抵抗を減らすM教授(流体力学)の研究が採択された。この研究は自衛隊の艦艇のみならず、民間のタンカーや船舶の燃費が10%低減される画期的なものである。このような優れた研究を学術会議が『軍事研究』と決めつけ、2017年3月24日付の『軍事的安全保障研究に関する声明』で批判した。

 奈良林氏は『学術会議は、日本国民の生命と財産を守る防衛に異を唱え、特定の野党の主張や活動に与(くみ)して行動している。優秀な学者の学術集団でありながら、圧力団体として学問の自由を自ら否定している』と批判した。

 奈良林氏が指摘した『M教授の研究』について、北大の永田氏は『確認したら、2017年度の公募だった。提出締め切りか5月末。並行してM教授の採択済みテーマの扱いが検討され、2017年度末をもって研究終了(研究費返上)が決まった。そこまでの研究成果の評価結果はA判定だったらしい』と投稿している。

 M教授の研究は、船の燃費改善に大きな効果があり、A判定を受けるほど評価も高かったのに、学術会議が圧力をかけて止めさせてしまった、という話である。燃費改善がいったい、どう軍事研究に結びつくのか。そんなことを言い出したら、自動車も作れなくなる。(中略)

 学術会議は声明で『大学等の研究機関における軍事的安全保障研究、すなわち、軍事的な手段による国家の安全保障にかかわる研究が、学問の自由及び学術の健全な発展と緊張関係にあることをここに確認し、上記2つの声明を継承する』と宣言している。

 2つの声明とは『戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない』と記した1950年と67年の声明だ。私に言わせれば、この声明は2重に誤っている。まず、軍事的安全保障研究も当然、自由な学問研究として尊重されなければならない。これが1点。

 次に、軍事的安全保障研究を『戦争を目的とする研究』と決めつけるのも誤りだ。日本のような民主主義国家においては、まったく逆で『戦争を抑止する』観点が主眼である。たとえば、敵国に対して有利な情勢をどのように構築するか、という研究を通じて、自国への攻撃を思いとどまらせる方策を探るのだ。(中略)

 学術会議は日本で先端的研究を妨害する一方、中国科学技術協会とは協力覚書を結んでいる。中国の学術団体が中国共産党支配下にあるのは、言うまでもない。中国共産党が『軍民融合』を唱えて、先端技術の軍事応用を進めているのも、その分野では常識である。

 学術会議は2015年、そんな中国と覚書を交わして『本覚書の範囲内で推薦された研究者を、通常の慣行に従って受入れ、研究プログラムの調整や、現地サポートの対応を行う』と宣言した。日本の研究は妨害する一方、中国の研究は積極的に応援する。ダブルスタンダードどころか、まさに『国益に対する背信行為』と言わなければならない。

 野党や左派マスコミは『学術会議が推薦した新会員の任命が拒否されたのは、政府の不当な介入だ』と騒いでいるが、そもそも学術会議自身が『拒否を含めた政府の任命権』を容認していたことも明らかになった。

 10月7日付の朝日新聞BS-TBSなどによれば、会議は2016年、会員に3人の欠員が出たとき、ポスト1人につき優先順位を付けて2人の候補を首相官邸に示していた。さらに、17年には交代予定の105人を超えて110人の名簿を提出していた。

 これが意味するところは明白である。会議側は当時から『提示した候補者すべてが任命されるわけではない』と承知していた。つまり、首相の任命権だけでなく、拒否権を認めていたのだ。複数の候補を出したのは、拒否される場合を考慮したからにほかならない。

 呆(あき)れるのは、2016年のケースである。提示した複数の候補のうち、会議が優先扱いを求めた候補を官邸が拒否すると、会議側も譲らず、結局、欠員のままになった、という。

 これでは、何のために複数候補を提示したのか分からない。まさに『当て馬』だった。こんなところにも、世間の常識をわきまえない学術会議の立ち居振る舞いが見える。(中略)

 首相が任命を拒否するのは法律違反、と主張する学者もいる。およそ政府が税金を支出する団体に対して監督権限を行使するのは、民主的統治(ガバナンス)の大原則だ。学術会議のケースでは、首相による『任命拒否を含めた任命権の行使』が統治の鍵になっている。

 『政府からカネをもらって、人事もやりたい放題』などという話が通用するわけがない。これだけでも、学術会議周辺に巣食っている学者のデタラメさが分かる」。

 「日本学術会議問題で、野党は追及のロジックを見い出せず、菅義偉政権の意思決定プロセスくらいしか、問題にできないのだ。なぜ、こうなってしまったのか。

 立憲民主党蓮舫代表代行は10月14日の会見で『誰のための任命拒否を、誰がどの権限で行ったのか、がまったく分からない。その部分はまさに、密室政治そのものではないか、と思っている』などと語った。

 自民党は学術会議の在り方を検討するプロジェクトチームを立ち上げ、初会合を開いた。これについて、蓮舫氏は『自民党も政府も、躍起になって論点ずらしをしているとしか思えない。まったく間違っている』と強調した。

 そのうえで『日本学術会議の組織そのものに、百歩譲って課題があるとしても、今やらなければいけないのは、なぜ任命拒否をしたのか。その経緯の再検証が最優先だ。日本学術会議法に『内閣総理大臣が推薦に基づいて任命する』とある条文を、なぜ守らなかったのか、杉田官房副長官が人選に関与していたのか、違法行為があったのか。これに尽きると思っている』と指摘した。

 この発言を見れば、追及が袋小路に入ってしまったことが分かる。

 立憲民主党は当初『学問の自由に対する国家権力の介入であり、到底看過できるものではありません』などと拳を振り上げていただが、これでは『刺さらない』とみたのか、決定プロセス問題に矛先を変えてしまった。

 それはなぜかと言えば、学問の自由を脅かしていたのは学術会議自身だったことが、バレてしまったからだろう。北海道大学の奈良林直名誉教授が国家基本問題研究所に寄稿し、同大のM教授の研究について学術会議が圧力をかけ、研究を辞退させていたことが明らかになったのである。(中略)

 私は、この『北大事件』を『夕刊フジ』の連載コラムでも取り上げているが、夕刊フジ編集部の取材に対して、学術会議の広報担当者は『何をもって圧力なのか分からない』などと答えている。実に苦しいコメントである。

 北大事件の最大のポイントは『学術会議の誰が、どのように圧力をかけたのか』『北大側は誰が応対し、なぜ圧力に屈してしまったのか』という点である。私は『M教授が研究を辞退しないと、学術会議は北大の学者を学術会議の会員に推薦しないぞ』と脅したのではないか、みている。

 学者の世界では『日本学術会議会員』という肩書が『最高級ブランド』になっている。これを手に入れれば、社会的名誉はもちろん、学者の世界で幅を効かせられる。

 具体的に言えば、政府の科学研究費(科研費)の配分をめぐって、学術会議会員の学者が事実上の裁量権を握ることも可能になる。科研費の配分は日本学術振興会科研費審査委員が決める仕組みだが、学術会議会員が審査委員を兼ねる場合も多いのだ。

 学術会議の会員(と連携会員)は現在の会員(と連携会員)が推薦する仕組みだが、推薦を受けたうえで、新会員(と新連携会員)候補者は学術会議の選考委員会と幹事会、総会、さらに会長の承認を得なければならない。そのうえで、最終的に内閣総理大臣に候補者を推薦するのは会長だ。つまり、推薦の決定権は完全に学術会議が握っている。こうした仕組みの下で、学術会議の意向に逆らうと、学者の世界で異端扱いされ、会員になれないばかりか、研究の命である科研費の恩恵にも与れなくなってしまいかねないのである。

 いずれにせよ、まさに『学問の自由』に直結する問題であり、事は重大だ。学術会議は何をしていたのか。政府・自民党は、ぜひ『北大事件』の真相を国会で徹底的に検証してほしい。いまだに『学問の自由に対する侵害』などと叫んでいる野党や左翼学者たちは、その線で追及を続けると、自分たちがドツボにはまってしまうことに気が付いていないようだ。

 蓮舫氏が決定プロセスについて『再検証が最優先』と言っているのは、そんな落とし穴に気づいて、軌道修正を図っているのかもしれない。そうだとしたら、野党はいずれ、問題をうやむやにして終わらせるのではないか。(中略)

 蓮舫氏が問題視している意思決定プロセスについても、一言、付け加えよう。首相が案件を決裁するのに、官房長官官房副長官、さらに閣僚たちを指示して、前さばきさせるのは当たり前だ。何から何まで、首相が自分ひとりで仕切るわけがない。

 それを『密室政治』などとケチを付けているようでは、およそ子供じみていて、話にならない。野党議員はその程度、と今回の問題でも、またバレてしまった。

 左翼学者たちは『日本学術会議を手に入れた』と思い込んだ。そこは、カネと名誉が思いのままになる『左翼の楽園』だった。調子に乗って、他の学者の研究にも文句をつけたら、見事に成功してしまった。そこに菅政権が任命拒否を仕掛けると、蜂の巣を突いた騒ぎになって『学問の自由』を言い出した。だが、それこそが、まさに『やぶ蛇』だったのだ」。

断章214

 「ある国内半導体メーカーの経営幹部は最近、中国・清華大学の教授から、『米国の攻撃は終わりが見えないが、必ずアジアの時代が来る。もっと一緒に何かできないか』という連絡をもらって驚いたと明かす。

 習 近平国家主席の母校で、半導体を中心としたハイテク産業振興をけん引する清華大学

 その姿勢から見えてくるのは、攻め手を止めない米国を前にしても、中国が決してあきらめていないということだ」(2020年10月21日の日経ビジネス電子版・岡田達也の記事を再構成)。

 

 もし中国(中国共産党)の甘言(利益誘導)に誘われると・・・、

 「『ふえるわかめちゃん』や『ノンオイル青じそドレッシング』などのヒット商品を生んできた東証1部の『理研ビタミン』が不正会計問題で上場廃止の危機に直面している。安定した収益力を誇る時価総額1000億円弱の企業が突然陥った危機の要因を分析すると『中国リスク』の恐ろしさが浮かび上がってくる。多くの日本企業にとっても無縁ではいられない重要な問題だ。理研ビタミンは10月15日、東証の監理銘柄(確認中)に指定されるとともに『10月28日までに第1四半期(4-6月)の四半期報告書を関東財務局に提出できなかった場合は上場廃止が確定』とのニュースを開示。市場関係者の間では『そこまで深刻な状況だったとは』と驚きが広がり、慌てて情報収集に追われているようだ。

 理研ビタミンは社名が示すとおり『理化学研究所』が発祥で、理研の研究内容を工業化するために設立された『理研栄養薬品株式会社』のビタミン部門関係者が分離独立して1949年に設立された。テレビCMで有名なわかめスープやドレッシングなどの家庭用食品のほか、業務用食品、加工食品用の原料や改良剤、ビタミン類等の製造を手掛けている。海外への展開にも積極的で中国や東南アジアのほか、米国、ドイツに現地法人を置いている。

 今回、問題が判明したのは中国・山東省にある子会社『青島福生食品』。1994年にレトルト食品用の冷凍野菜の輸入を目的に買収した。ただし、その後中国産食品に対するイメージの悪化から現在は取り扱っていない。冷凍野菜・水産加工品・コラーゲンの製造・販売を手掛けており、2015年まではそれなりの利益を上げてきたものの翌年以降赤字が続き、2019年以降は銀行借入に対して理研ビタミンが保証を付けたり、資金援助しなければ立ち行かなくなっていた。

 その青島福生食品がエビ加工品の架空取引をするようになったのは同社の決算月にあたる2018年12月からで、同月は8億円余りの架空取引が行われた。さらに2019年12月期は架空取引が1年を通じて行われ、その額は116億円に上った。19年12月期のエビ加工品の販売総額は124億円であるため、その取引のほとんどが架空であり、同社の売上高全体の実に7割以上に及んだという。こうした経営がまかり通ってきた背景として、理研ビタミンの完全子会社であるにもかかわらず事業上の関係が希薄であり、青島福生食品の人事に親会社が関与してこなかったことなどが指摘されている。理研ビタミンが設置した『特別調査委員会』による実地調査に対し、青島福生食品は国家機密や社内の共産党委員会に関係する情報の流出、従業員のプライバシー等を理由に拒絶し(引用者注:すべての日本企業はこれを肝に銘じよ!)、十分な調査はできなかったという」。

 「チャイナリスクはほかでも顕在化している。同じく東証1部上場の大手専門商社『国際紙パルプ商事』(以下、KPP)は7月21日、中国の連結子会社において、154億円もの債権に取立不能・遅延リスクが発生したことを明らかにした。KPPの連結子会社である慶真紙業貿易(上海)と香港大永(香港)が取引をしていた会社の親会社にあたる『Samson Paper Holdings Limited』(以下、Samson)(香港証券取引所上場)が7月20日バミューダ最高裁判所に対し再建に向けた『暫定清算手続』の申請を行ったためである。

 KPPはとりあえず4-6月期決算では3月末時点の債権残高のうち、7月20日時点で未回収だった27億円について貸倒引当金を計上したが、今後の債権回収状況を鑑み、8月12日になって通期業績予想を61億円の営業赤字とした。(中略)

 似たような事例はまだある。東レの子会社で東証1部に上場する名門商社の『蝶理』も7月27日に子会社の『澄蝶』(東京都港区)で49億円もの売掛金の回収遅延が発生したため、4-6月期にそのうち半額について貸倒引当金を積んだと発表した。相手先は『中国の化学品製造会社グループ』としか明かされていないが、同グループは『新型コロナウイルス感染症の世界的拡大の影響を受けて中国の経済活動が一定期間全面停止したことなどから、主力の石油化学事業が低迷し、資金繰りが不安定な状況に陥っているとされ、澄蝶への原料購入代金の支払いが遅延』(発表)しているという。蝶理はこの損失のため1株57円としていた今期の配当予想を『未定』とした。ちなみに、澄蝶は社名が示すように中国の大手リン酸メーカー『江陰澄星』と蝶理合弁会社である。蝶理は1961年に国交正常化のはるか前の中国で『友好商社』の指定を受け、『日中貿易のパイオニア』を自認している。それでも今回中国での大口焦げ付きを避けられなかった」(2020/10/22 ダイヤモンドオンライン・東京経済東京支社情報部井出豪彦の記事から引用)のである。中国ビジネスは甘くない。

 

 思いだそう! 2015年4月末、当時「東証1部上場だった化学薬品商社『江守グループホールディングス』(福井市)が、民事再生法適用の申請を発表し、破綻した。同社は2014年3月期決算までは好業績を続けていたが、その後、中国の取引先から代金が回収できないなど、傾注していた中国事業での失敗が表面化。債務超過に陥り、明治の創業以来109年続いた創業家の歴史に幕を下ろした。福井の名門企業である同社の倒産劇は改めてチャイナリスクの大きさをクローズアップさせた」(2015/06/03 産経新聞)。

断章213

 主権国家体制とは、中世における普遍的世界の崩壊に伴って16世紀~18世紀のヨーロッパで形成された国家のあり方と世界秩序のことである。それは、国家より上位の権力を認めず、国家間は対等であるとする。

 

 科学技術革命は、まずイギリスにおいて、18世紀半ばから19世紀にかけて「産業革命」として結実した。産業革命において特に重要な変革とみなされるものには、綿織物の生産過程におけるさまざまな技術革新、製鉄業の成長、そしてなによりも蒸気機関の開発による動力源の刷新が挙げられる(その後の技術革新により、蒸気機関が1馬力・時間当たりに消費する石炭は45ポンドから2ポンドまで減った。そのため、イギリス以外でも蒸気機関を導入できるようになって、イギリスが独占的に享受していた競争力は失われていった)。

 

 資本主義とは、〈市場〉での自由な競争をとおして、より良い商品・サービスを提供する企業・個人が勝ち残っていくシステムである。

 資本主義確立の条件は、二重の意味で自由な労働者が生まれることである。

 「二重の意味で」とは、第1に、奴隷ではなく、(労働力の所有者として)自由に契約できる主体ということであり、第2に、生産手段をもたない ── 生産手段から自由な ── 主体ということである。

 かかる資本制的生産様式は、世界で最初にイギリスにおいて胎動を始め、「産業革命」後に支配的生産様式となり、やがて資本制的社会構成体として全面的に確立した。

 資本制社会における支配階級による被支配階級への支配と搾取は、奴隷制社会や封建制社会のように「経済外的強制」という直接的な形態をとらず、蓄積された過去の労働としての資本家的私有財産(資本)による、生きた労働(その源泉としての労働力商品)の支配と搾取という商品形態をもって媒介的におこなわれ、資本家と労働者の階級関係は、資本家の持つ貨幣と労働者のうちなる労働力商品の自由・平等な等価交換という外見の下に隠される。

 『広辞苑』は、資本主義を、「封建制下に現れ、産業革命によって確立した生産様式。商品生産が支配的な生産形態となっており、生産手段を所有する資本家階級が、自己の労働力以外に売るものを持たない労働者階級から労働力を商品として買い、それを使用して生産した剰余価値を利潤として手に入れる経済体制」と定義している。

 

 こうして、ついに近現代の世界に欠かせぬ「トリデンテ」―― トリデンテとはスペイン語で三又(みつまた)の槍を意味し、アタッカートリオを指します ―― 、すなわち主権国家、科学技術革命、資本制的生産様式が出そろったのである。

断章212

 「産業革命は、なぜ他の国ではなくイギリスで起こったのか」という問いに対する回答のひとつは、「イギリスは(他国に比べれば)高賃金でかつエネルギー価格が低かったから」である。

 というのは、すでにイギリスの農村ではペスト禍による人口減少から耕作地を牧草地に転換し、羊の飼料改善を行ったことで毛織物産業が発達した。その後も農法の改良を進めて農業生産が増大したので、『農地囲い込み』が可能になり、『民富』が増大した。

 さらに、「スペイン、オランダを経済・戦争で圧倒して大西洋の覇権を手に入れ、貿易で富を得た17世紀末にはバンク・オブ・イングランドが設立され、18世紀に入ると『産業革命』を待たずに英国は大運河時代に突入する。そこにはすでに馬では運びきれないほどの『生産力』があり、馬に代わる流通網として運河を築くだけの『資金』蓄積もなされ、運河に沿って活発な『商業』活動が繰り広げられ、『国富』の拡大蓄積があった。『国富』『民富』の拡大蓄積によって都市が発展し、農村から労働者を引き寄せた。

 ロンドンの熟練労働者は(相対的に)高賃金だったので、機械の発明・利用による労働者削減に大きなインセンティブが働いたのである。賃金が高く、エネルギー価格(石炭)が安かったから、労働者を機械に置き換えるという方向への発展が起きたのである(必要は発明の母である)。

 こうして、生産は工場制手工業(マニュファクチュア)から『機械制大工業』に、さらにそこに18世紀終盤からワットの蒸気機関が加わり、19世紀中盤からはそれを応用した鉄道や蒸気船などの『交通革命』も加わったことで、より幅広く、よりパワフルに、より全産業的に、『産業革命』は広まっていったのである」(以上、『世界史のなかの産業革命』へのアマゾンレビューなどを参照)。

 

 一方、E・トッドの知見では、「イングランドが最初の資本主義国になったのは、(イングランドアメリカ型の絶対核家族という)金銭を媒介とする相続という慣習の影響で、農地からの離脱が容易だったから」であり、「こうした家族類型から導き出される『自由』と『競争』、『差異主義』という原理が、資本主義経済を下支えすることにつながるわけです。

 あくまで個人が優先されるため、個人の金儲けの自由、自分と他人とは違うという差異主義、損得勘定が第一義とされます。儲けたお金を投資するのも自由という考え方は、株式会社というシステムを誕生させます。イギリスの産業革命アメリカの発展を促したのも、『自由』と『競争』と『差異主義』の精神」によるのである。

 鍵となったのは、「1707年に、イングランドスコットランドが同君連合を組み、グレート・ブリテン王国 = イギリスを成立させたことです。トッドは、スコットランドという直系家族の地域に蓄えられた知識が、イングランドに大きく寄与したと見ています。直系家族は、長男の嫁をキーパーソンにして、知識の蓄積、継承が行われやすい家族形態です。そうした直系家族で育まれたスコットランドの知性には、哲学のヒューム、トマス・リード、経済学のアダム・スミスらの『スコットランド啓蒙』と総称される知識人たち、および蒸気機関のジェームズ・ワット。また後の、電話のグラハム・ベルペニシリンのフレミング、ゴムタイヤのダンロップなど偉大な発明家・・・枚挙にいとまがありません。つまり、同君連合でグレート・ブリテンを成立させたことで、スコットランドの直系家族の知性と(イングランドの)絶対核家族の自由、独立、競争の冒険精神が結合して偉大なるイギリスの18世紀を用意したのであり、もし、どちらかが欠けていたとしたら、18世紀はイギリスの世紀とはならなかった」とみる。

 「家から早く独立し、親子関係もドライだという『絶対核家族』の指向が、工場労働者の大量供給を後押ししました。逆の見方をすれば、賃金労働の拡大が、イングランドの絶対核家族化を加速させたとも言えます」(以上、鹿島 茂を参照)。

 

 知識・思想、宗教、法などの精神的世界。経済、制度、技術などの社会的基盤。地理、気候、資源などの自然的条件。こうした精神、社会、自然の三重構造は、相互に作用(規定)しあい相互浸透しながら、この現実を創りあげ変えていく(わたしたちにとって良い方向に、とは限らない)。

断章211

 「読み書きと基礎的算術への全般的到達、次いで中等・高等教育のテイクオフは、全体として、〈歴史〉の本質的基軸のひとつをなすということは、認めなければならない。大文字の〈人間〉なるものについての理論的考察を行なっても、〈人間〉とは何かの理解を先に進ませてくれはしない。ここにおいて、人間とは何かを教えてくれるのは、〈歴史〉そのものである」(E・トッド)。

 

 前述の“危機の17世紀”は、同時に、「14世紀に始まったルネサンスや16世紀の宗教改革など、多くの変化が数百年をかけて、着実に人々の意識を変え始めていたのです ―― 1439年頃に、グーテンベルクが金属活字を使った印刷術を発明したことで印刷革命が始まり、それが一般に中世で最も重要な出来事の1つとされている。活版印刷ルネサンス宗教改革、啓蒙時代、科学革命の発展に寄与した。

 そのような意識の変化の積み重ねに加えて、社会情勢の悪化が引き金となり、従来の常識を解体する科学的な変革が起こりました。それが『科学革命』です。

 17世紀には今も名が知れ渡っている多くの科学者、哲学者が、画期的な研究成果を発表しています。有名なところでは、以下の人物が挙げられるでしょう。

 ニコラス・コペルニクスに始まる地動説を理論面で実証したヨハネス・ケプラー。天体観測によって地動説を証明したガリレオ・ガリレイ万有引力の法則を発見し、近代科学に大きな影響を与えたアイザック・ニュートン。合理主義哲学を生み出したルネ・デカルト。いずれも後世の科学に大きな影響を与えた学者です。

 これら研究の共通点は、従来の神学や宗教的世界観を前提とせず、あくまでも実験や観察に基づいたデータの分析と、数学を用いた論理追求の結果だったことです。実験や観測による研究と理論の組み立ては、現在で考えれば当たり前のように思えますが、17世紀当時では一般的な常識を解体するほどの変革でした。

 当然反発も少なくありません。たとえば、ガリレオは地動説の証明によってローマ教皇庁から異端扱いされ、宗教裁判によって有罪判決を受けています。1633年に下った判決は、約350年も経った1984年になってやっと無罪が証明され、名誉回復が行われたほどです。

 このような既存概念の反発を受けつつも科学の発達が進んだのは、ルネサンス大航海時代の到来によって、ヨーロッパ社会の世界観が大きく開かれていったからでした。

 アジアやアメリカ大陸からもたらされる新しい文化と物資によって、世界観が少しずつ変化していきました。そこに経済の低迷や凶作、反乱などさまざまな困難が襲ってきた結果、人々は新しいものの見方や考え方を求めたのです。科学者や思想家は真理を求める欲求に加えて、世界を変える使命感に突き動かされたのかもしれません。表面の反発はありつつも、多くの理論や発見が社会に受け入れられ、近代科学へと発展していくことになります。

 このように、17世紀に行われた科学革命はそれまでの社会から異端視されるほどの出来事でした。しかし、同時にそれまでの既存概念から解き放たれ、多くの発見をもたらすことになったのです。そしてその実証と論理に基づく科学論は、18世紀の産業革命のような爆発的な技術発展につながっていきます。科学力と技術力の高度化は、ヨーロッパ諸国が全世界をリードする基盤となっていったのです。

 科学革命は科学だけでなく中世までの意識そのものを『解体』し、近代社会を『創造』するパワーの一つになったといえるでしょう」(リバイブHPから引用・紹介)。

 

 「コンドルセのような啓蒙思想家たち、デュルケムのような19世紀末の社会学者たちは、教育の発達を自律的で第一義的な変数と考えていた。〈歴史〉の中を〈精神〉が前進するという壮大なヘーゲル的ビジョンは、ことさら必要ではなく、経験的なやり方で観察するだけで、識字化のテイクオフが工業化のそれより前に起こったことが見て取れたのである。読み書き計算を習得する社会集団が、ますます増大していくということが、18世紀・ 19世紀の人間に、歴史の推進力とは、知的な面で上昇することができる人間の能力であることを明快に指し示していた。彼らには、経済的発展は、教育水準の上昇の論理的帰結であると見えた」(E・トッド)。

 

 トッドに言わせれば、「識字化(つまり識字率の上昇)とは人類の発展の推進力であり、同時に発展の尺度でもある。経済的発展は、識字化の進展の結果であって、決してその原因ではない。

 ・ ・ ・読み書き能力を身に付けると、人々は個人としての自意識に目覚め、伝統的慣習に疑問を抱くようになる。そこで識字率がある水準を超える、つまり多数の住民が識字化されると、平穏な前近代との決別、すなわち近代化が始まる」(『デモクラシー以後』・訳者解説)。

 

【参考】

 「カトリックの社会では、『聖書』を読むのは司祭の仕事であり、逆に一般住民は文字を読んではいけないとされていた。だから『聖書』は教会に置いておくものであり、家へもって帰ってはいけなかった。これが識字率に大きく関係してきて、南欧カトリック地帯では、識字率が高くなるのがずっと遅れた。現に私が1960年代にポルトガルへ行ったときも、ポルトガルのおとなの識字率は50%から60%だった。当然読めるだろうと思って書いても、読めない人がけっこういた」(速水 融)。

断章210

 「16世紀に大航海時代を迎えたヨーロッパは、世界の拡大とともに繁栄を謳歌した。ところが16世紀末、宗教戦争が始まると社会は安定を失っていった。

 “17世紀の危機”(例えば、17世紀中、小規模のものも含めて戦争のなかった時期はわずか4年しかなかったとされる)の最大の要因としては、小氷期の到来により気候が寒冷化したことである。農作物の不作が続いて経済が停滞し、魔女狩りをはじめとする社会不安が増大する。さらにペストの再流行で人口が減少に転じた(ちなみに、近年でもペストの感染は続いており、2004~2015年に世界で56,734名が感染し、死亡者数は4,651名(死亡率 8.2%)である)。宗教対立が激化したために、王室は財政難の打開を目的に中央集権化を進めたが、これに貴族が反発、農民も一揆を起こすようになった。

 特に30年戦争がヨーロッパにもたらした影響は大きかった。結果、ヨーロッパのほぼ中央に位置する神聖ローマ帝国の土地は荒廃し、『神聖ローマ帝国の死亡診断書』とも言われるウェストファリア条約が結ばれた。以降、ウェストファリア体制と呼ばれる勢力均衡体制が出来上がり、各国の相互内政不干渉が保証される。こうして成立した近代主権国家は、20世紀に至るまでの国際社会の基盤を作り上げた」(2020/10/15現在のWikipediaによる)。

 

 「『主権国家』とは、近年になって出てきた概念ではない。それは、歴史学政治学など、人文学・社会科学の分野で古くから用いられてきた。簡単にいうと、①国境によって他と区分される領域をもち、②その領土においては、国の内外の勢力からいかなる干渉も受けない排他的な統治権を有する国家と定義される。ここでいう内外の勢力とは、近世ヨーロッパでは、一方では国内の貴族などの勢力、他方では皇帝や教皇のような普遍主義的な上位の権威を意味する。

 『主権国家』は、近代国家の前身として説明されることが多いが、近世の『主権国家』と近代の『国民国家』には、次のような違いがある。①近世では、国境や領域は明確に定まってはおらず、国民もいまだ形成の過程にあり、②主権は国民ではなく、君主の家産として継承されたことである。(中略)

 重要なことは、現在みられる対等の諸国家から構成される国際関係とそのルールが世界史上初めて誕生したのが、近世のヨーロッパであったということである。それは、東アジアにおける華夷秩序朝貢システムのような非対等的な国際関係とは大きく異なるものであった。また、その主要な原理の一つが、強力な覇権国の台頭を阻止する『勢力均衡』であることは、広く知られていよう。

 近世ヨーロッパにおいて、主権は国民にではなく、君主の家産として継承されたことは先述したが、この場合、『絶対王政』とは、国王による専制政治や中央集権化の傾向がみられた『主権国家』をさして用いられる。このような『絶対王政』の特徴として、しばしば指摘されるのは、戦争にともなう常備軍と官僚制の整備である。

 このように、国家や政治体制に注目して限定的に考えるのであれば、近世の『主権国家』と『絶対王政』のあいだに概念上違いはないといってもさしつかえない。実際、世界史教科書でも、両者はほぼ同じ脈絡で説明されるのが一般的である。

 かつて『絶対王政』や『絶対主義』は、近代の資本主義の発展や、イギリス革命・フランス革命のような市民革命との関係から説明されることが多かった。たとえば、『絶対王政』を中世の封建国家の最終段階、近代国家の初期段階とみなして、市民革命により最終的に打倒されるといった説明である。しかし、市民革命論とその前提をなした一国史的・発展段階論的な歴史観が通用しなくなった現在では、そのように『絶対王政』を考えるわけにはいかない。むしろ、歴史家のあいだでは、近世の国家のあり方をその時代にそくして理解しようとする傾向が強まっている。それゆえに、『絶対王政』や『絶対主義』よりも、『主権国家』の概念のほうが、近世ヨーロッパ史を学ぶうえで近年重視される傾向にあると思われる」(中村 武司)。

 

 絶対王制(絶対王政)について付言すれば、それは、「農村商工業の展開がもたらした封建制の経済的な危機に対応する封建制の最終的な統治形態及び政策体系と定義されます。言い換えるなら、それは封建制の危機に対応する封建領主層の権力集中であり、その結果、権力が集中した先に絶対君主が発生することになります。

 絶対王制は封建制の危機と外圧へ対応するための封建領主の権力集中ですから、以下の3つのことを主たる課題としました。

 第1は、産業規制です。いうまでもなく、農村商工業の展開こそが封建制の危機の根本的な原因ですから、それにいかに対処するかが何よりも絶対王制の成否を問うことになります。農村商工業を抑制・禁止することが絶対王制の第一の課題でした。しかし、外圧という面にも配慮するなら、絶対王制は農村で展開した新たな経済活動を抑圧するだけでは済まず、君主自らが企業を設立・誘致して、新産業を育成し、先端技術を導入し、また、軍隊を強化するための兵器生産に乗り出さざるをえないという殖産興業の課題も同時に担わなければならなかったのが、絶対王制の産業政策の二重性でした。

 絶対王制の第2の課題は貿易規制です。貿易にともなう貴金属の流出入が国富を増減し、国力を左右すると考えられた時代ですから、絶対王制は、輸出を奨励し、また輸入を抑制するために保護関税、産業育成、輸入代替国産化などの政策を採用しました。また、輸出入を君主権力が統制するために、君主によって貿易独占権を付与された特権的貿易商組合を組織させるとともに、特権の見返りに諸種の営業税(冥加金)を課し、また王室や政府への融資を求めました。

 第3の課題は中央集権的統治機構の整備でした。従来の地域別・身分別の分権性を統合して、君主の下で全国を一円的に統一的に統治するための行政機構、課税・徴税機構、そして君主直属の常備軍を整備することになります。直属常備軍は外圧への備えであるにとどまらず、16世紀ごろよりヨーロッパの諸国間で頻発するようになってきた諸種の戦争で、配下貴族の裏切りや怠慢を防止して対外戦争を有利に戦うためにも必要でした」(小野塚 知二の前掲書から抜粋・再構成)。

断章209

 「ヨーロッパでは15~16世紀、ほぼ近世の前半にあたる時期に、商業上の大きな変化が発生します。そのひとつは域外貿易の拡大であり、他方は『価格革命』です。これら2つの変化を総合して、ヨーロッパ近世の『商業革命』と呼びます。

 『地理上の発見』や『新航路の開拓』は単に海運・航海上の出来事ではなく、アジアや新大陸との直接貿易が拡張することによって、東洋産の既知の産品だけでなく、さまざまな新種商品がアジア、アフリカ、中南米から流入し、ヨーロッパの人々の生活に深く入り込むようになります ―― たとえば、ジャガイモは新大陸から伝わりましたが、現在のヨーロッパの食からジャガイモを取り除いたら、彼らの摂取熱量が下がるだけでなく、ジャガイモ栽培をやめたらヨーロッパの食料自給率も大幅に下がるでしょう。大雑把にいって、ジャガイモは麦類の穀物と比べるなら、同じ面積で2倍ないしそれ以上の熱量が収穫できるので、近世以降のヨーロッパの人口増加を支えた重要な食料となりました。

 これらの外国産品の対価としてヨーロッパが支払ったのは、主に銀(ヨーロッパ産、後に新大陸産)であり、また中世から近世にかけてのヨーロッパの基軸商品ともいうべき毛織物でした」(小野塚の前掲書から抜粋・再構成)。

 

 「『地理上の発見』や『新航路の開拓』にもっとも積極的だったのは、いうまでもなくポルトガルとスペインであった。地中海はすでにイタリアの商人におさえられている。だから彼らは、大西洋を使ってアジアへはいるルートを模索したのである。喜望峰の発見がこの模索の成果であったことはいうまでもない。ジェノヴァの商人コロンブスは、スペイン女王イザベラの援助を受けて、インドへ達するルートを求めて西へと向かったのである。

 後に17世紀にはいると、スペイン・ポルトガルにかわってイギリス・オランダが進出してくる。彼らの進出の象徴的存在が東インド会社なのである。・・・アジア文明圏との直接の接触はヨーロッパに多くのものをもたらした。とりわけインドの木綿、染料(インディゴ)、こしょう、南アジアの香辛料、中国の生糸、絹、陶磁器、(引用者注:そして、茶)はヨーロッパにいわば消費ブームを呼び起こした。これらの物産は、ヨーロッパの上流階級の欲望に火をつけたのである。それらの商品は、異なった文明へのロマンティックな思い入れと、エキゾチックな好奇心をかきたて、上流階級に消費ブームを引き起こしたのである。

 ところが、ヨーロッパはといえば、自らの旺盛な需要の見返りに当時の『先進』文明圏であるアジアに輸出する商品をもたなかったのである。毛織物を除いてヨーロッパは輸出すべき格別の物産をもたなかった。ヨーロッパ産のものでアジアにもっていって売れるものは銀と銅ぐらいであった。そこで、ヨーロッパは、アジアからの輸入代金を手に入れるために、新大陸に金を求めることになる。

 『スペイン人の心の病に効く特効薬は金だ』といわれたように、スペインは憑かれたように新大陸に金を求めた。西インド諸島の金が枯渇しかかってくると、メキシコ、ペルーに銀を求めた。これらの地でのインディオたちの虐殺は、金銀に対するスペイン人(引用者注:そして、わたしたち)の欲望の底知れぬ不気味さをあらわしている」(『欲望と資本主義』)。

 

 同じ時期に、「ヨーロッパは物価の持続的騰貴を経験しました。これを近世の『価格革命』と呼びます。たとえば、イギリス(イングランドウェールズ)では、15世紀には価格は非常に安定的でしたが、16世紀に入ると上昇し始め、17世紀末には15世紀の平均価格の6倍にまで騰貴しています。こうした物価騰貴の背景には、人口増加、ことに商工業人口(土地なしの非農業人口)の増加が左右しているということが推測されます」(小野塚の前掲書から抜粋・再構成)。

 

 「イングランドは、農村商工業の発展によって、ヨーロッパの基軸商品の毛織物の原料輸出国から製品輸出国へと変化して、ヨーロッパ内の国際分業に大規模な構造変化をもたらしました。近世初期に強大な勢力を誇ったスペインが毛織物を産出できず、新大陸で獲得した銀もヨーロッパ諸国に流出するばかりで衰退し、逆にイングランドが徐々に経済力・海軍力を背景にして繁栄するようになる勢力交替の背景にも、この農村商工業の有無が作用していました」(同前)。

 まるで今日の国際情勢のようではないか?