断章257

 ネズミ男やウサギ女たち。下級国民は、「背中の殻のなかに悲しみをいっぱい詰めたデンデン虫」(新美 南吉)である。心で涙しても人前では笑顔で、滑り落ちやすい山道を登っていく人生である(時折は、慈雨に安らぎ、そよ風になごみ、虹に癒されて)。

 黒や赤の全体主義ファシズムマルクス主義)は、小さなデンデン虫たちを容赦なく踏みつぶすイデオロギーであり独裁政治である。

 小さなデンデン虫たちを守る戦いのフロントラインに立つのは、誰か?

 ドラッカーは、「キリスト教全体主義と対峙できるのか?」と問いかけた。

 では、日本の自由主義はどうか? 彼らは、全体主義に対峙できるのか?

 日本の自由主義は、「ひ弱な花」である。価値判断や信条をめぐる「思想闘争」も、亢進すれば必ず「流血の闘争」になる。彼らは、その厳しさに耐えられないだろう。また、日本の自由主義者の多くは、マルクス主義に親和的で、日本共産党に融和的である。「赤い(紅い)」全体主義と対決できないだろう。

 

 以下は、『「経済人」の終わり』、第5章の引用・紹介。

 「社会の古い殻を維持しつつ、その中身として新しい社会の実体を見つけるという奇跡を行おうとするファシズム全体主義は、今日のところ、ヨーロッパの二つの国ドイツとイタリアに限られている。この二つの国において民主主義が崩壊した原因を見つけることこそ重要である。これまで行ってきたファシズムの原因についての分析の有効性もここにかかっている。

 旧秩序の崩壊によってファシズム全体主義が現れるとの見方に従うならば、民主主義が生き延びるためには自らの公約を果たすだけでなく大衆の心に訴える力を持たなければならない。

 西ヨーロッパ諸国はどれだけファシズム全体主義の毒に対して抵抗力をもつか、どこまでドイツとイタリアに追随するかとの問いに答えるには、この両国において民主主義がなぜ崩壊したかを分析しなければならない。(中略)

 ドイツとイタリアにおいて、民主主義の崩壊を招いた原因について答えるには、両国に共通していながら、他のヨーロッパ諸国には見られなかった社会的、政治的要因を見つけなければならない。そのような社会的、政治的要因は一つある。いや、一つしかない。

 両国では、ブルジョア秩序の信条や標語の中に国民感情に訴えるものがなかった。そこには、社会的な公約とその実現に対する関心しかなかった。民主主義そのものは、大衆の心にいかなる情緒的愛着も伴っていなかった。当然、その実体が無効であることが明らかになるや否や、それらの信条や標語は存在しないも同然となった。

 他方、イギリス、フランス、オランダ、スカンジナビア諸国においては、民主主義獲得のための闘いが大衆の心の中に生きる経験と伝統になっていた。民主主義の信条がそれ自体愛着を伴う価値として根づいていた。

 イタリアの民主主義は、大衆の愛着を欠いたために挫折した。ドイツで起こったことも、イタリアと軌を一にしていた。ドイツでも、民主主義の信条は国家目的の手段として使われていたにすぎなかった。(中略)

 ドイツとイタリアの状況を分析するならば、民主主義の崩壊を招いた原因そのものは、両国だけに存在していたわけではないことが明らかである。両国に特徴的だったことは、両国の民主主義の信条、制度、スローガンには、大衆の心情と知性のいずれにも訴えるだけの力がなかったということだけである。

 逆にいうと、西ヨーロッパ諸国におけるファシズム全体主義に対する抵抗は、大衆が民主主義に対して抱いている心理的、知的な愛着だけである。この大衆の愛着が、民主主義の実体が失われた後においてさえ、民主主義の形式に対しある種の実体を与える。しかも、大衆の愛着を伴う伝統の力は強力であり、かなりの長期にわたってその保持を可能とする。

 しかし、そのような伝統の力に基づく抵抗は、いかに強力であっても慣性的な力にすぎず、消極的な力にすぎない。西ヨーロッパ諸国もその伝統から生まれてくる抵抗力を失えば、ドイツやイタリアと同じ問題に直面することを意味する」。