断章347

 「夢や幻ではなく現実を直視して、今ここで戦い、力強く生きよ」。

 現代世界(そして現代日本)のさまざまな諸問題(諸個別現象)を根本から正しく読み解くためには、〈人間〉についての普遍本質的な理解が必要である。

 〈人間〉の普遍本質についての理解を深めるためには、700万年におよぶ人類(ヒト)史の大半を占める先史時代についての考古学・人類学・疫学・生物学などの最新の知見を学ぶことも必要である。

 「サヨク」学者が、現代世界(そして現代日本)のさまざまな諸問題(諸個別現象)を底の浅い常套的な紋切型 ―― 「国家が悪い」、「資本主義のせいだ」 ―― で評論するだけに終始することは、史的唯物論の“公式” ―― 先史時代は原始共同体(原始共産制)で 階級がなかった ―― にあぐらをかいて先史時代(社会)のファクトを軽視することと同根なのである。

 複眼的考察の欠如による〈人間〉の普遍本質理解の不十分さ。その結果、「サヨク」学者たちは、いつまでも「ポエムに満ちた巨大な空虚」(ユートピア)としての「共産主義」を待ち続けることになる。

 

 狩猟採集生活の「遊動」から「定住」への移り変わりは、大きな変化の始まりだった。とはいえ、そのことが直ちに「平和で、豊かで、安全・安心な」暮らしを意味したとは思えない。というのは、過去から続く問題群が、さらに「定住」には「定住」特有の問題が存在するからである。

 

 “戦争”が「定住」することできれいさっぱり無くなった、とは思えない。

 たとえば、ニューギニアの「定住」民であるダニ族で起きていたような“戦争”が継続していたとみるべきではないだろうか?

 「もっとも人口が多い部族のひとつであるダニ族の戦闘の特徴は、まず、待ち伏せと野戦の頻回さがある。この攻撃により犠牲者が出ることは少ないが、待ち伏せと野戦とのあいだに大虐殺がときどき起こり、部族が全滅するか、人口の相当分が殺戮されることが起こる。

 また、俗にいうところの部族戦争は、異部族間戦争ではなく、実際は部族内戦争であって、言語と文化を共有する同一部族の人々が敵味方の二手にわかれて戦う場合がほとんどである。そして、敵味方の集団は文化とアイデンティティが類似しているにもかかわらず、相手方の人間を非人間的な悪魔のような存在とみなしたりする。少年たちは、幼少期から戦闘の訓練を受け、つねに臨戦態勢にあれ、と教えられる。

 他集団との同盟は重要であるが、同盟関係は恒常的ではなく、同盟の組み合わせは頻繁に変化する。ひとつの暴力が新たな暴力を呼び起こす悪循環の原因の圧倒的大部分を占めるのが敵方への復讐心である。戦闘は、戦いが専門の成人男性の一部だけではなく、部族集落の全住民をまきこむ出来事である。すなわち、『非戦闘員』であるはずの女性や子供も、『戦闘員』である男性同様、意図的に殺害されうる。戦闘では集落が焼き払われ、略奪が横行する」(『昨日までの世界』ジャレド・ダイアモンド)。

 

 さらに、「村落での定住生活がもつ利点には、それに対応する欠点もある。たしかに人間は仲間とのつきあいを切望する。しかし、お互いの神経を逆なでもする。トーマス・グレガーがブラジルのメイナク・インディアンの研究において示しているように、個人のプライバシーの詮索が、小さな村に住む人たちの日常生活ではしょっちゅう話の種になる。メイナク族はお互いについてあまりにも知りすぎており、かえって害になっているように見える。かかとや尻の跡から、ある男女が立ち止まった場所や、道からそれて性的関係を結んだ場所を話題にすることができる。

 村に出入りすれば、かならず誰かに気づかれることになる。プライバシーを守るためには、小声で話さなければならない。草ぶきの壁には扉がないので筒抜けとなるからだ。村の中には、男性の場合だと性的不能早漏、女性の場合だと性交時のふるまいや、性器の大きさ、色、臭いなどをめぐるうるさいゴシップが満ち満ちているのである(引用者注:昔の日本の山村でも聞くような話である)。

 大勢で住めば、たしかに身の安全は保証される。しかし、つねに移動していて侵略者から逃れやすいことも身の安全につながる。大勢なら大規模な協同労働ができるというのは、たしかに利点ではある。しかし人間が集中すればするほど、獲物の供給量は減り天然資源が枯渇することになる」(『ヒトはなぜヒトを食べたか』を抜粋・再構成)。