断章461

 資本制社会における賃金労働者は、二重の意味で自由な労働者である。

 「二重の意味で」とは、第一に、奴隷ではなく、(労働力の所有者として)自由に契約できる主体ということであり、第二に、生産手段をもたない(生産手段から自由な)主体ということである。

 これは重要なポイントである。というのは、崩壊した旧・ソ連の評価において、「社会主義だった」という共産党的大マヌケはさておき、今なお「ソビエト型経済」といった曖昧模糊(あいまいもこ)な判断停止のままで旧・ソ連崩壊後の歳月を空費している者たちが存在するからである。

 スターリン(あるいは毛 沢東)が君臨した時代のソ連邦(あるいは中国)の政治システムは、特権的党官僚階級が支配する赤色(あるいは紅色)全体主義体制であった。経済のシステムは、党=国家官僚が生産(建設)のノルマ(個人や団体に対して国家や組織が強制的に割り当てた労働の目標量であり、多くの場合は労働の成果のみならず時間的な制限も付加される ―― Wikipedia)を決め、それに必要なモノ・カネ・ヒトを割り当て、できたものを配給するというシステムだった。

 人間も党=国家官僚が配分していたのである。労働者は、(労働力の所有者として)自由に契約できる主体ではなかった。

 「80年代以前の中国では、大学生の就職先は、すべて共産党が決めていました。卒業式の当日、卒業生は大学の1室に集められます。部屋には地方行政を司る党書記がいて、一人ひとりの名前と、就職する企業名と配属先が読み上げられます。党の方針にもとづいて、就職先が決められてしまうのです。このような光景は、改革開放政策が進むことで一変しました」(楊 海英)。

 

 赤色特権的党=国家官僚が、「神に代わり この世の全て 我らの 手に収める 愛も 富も 自由も全て 我らに与えられし 権力の甘い果実♪」(『秩序のもとに』)を味わうためには、こうした軍国主義的な官僚統制経済が最適だった。

 しかし、工場・商店・農場を国有化あるいは集団化して、官僚的計画経済によって運営すれば、より有利なノルマや資材・カネ・ヒトの割り当て、より多い配給を獲得しようとしてはびこるものは、上級機関に対する“袖の下”(ワイロ)である。

 官僚統制経済は、融通が利かない(注:融通が利くとは、「物事などを滞らせることなく通じさせること」「その場面に応じ、臨機応変に適切に対応すること」)ので暮らしにくくてストレスフルである。

 結局、旧・ソ連経済は回らなくなって崩壊したし、中国は毛 沢東の死後大急ぎで「市場経済」という名前の資本システムに大きく舵を切ったのである。

 そして、世界の主要国の経済システムは、『CAPITALISM,ALONE(資本主義だけ残った)』(ブランコ・ミラノヴィッチ)。