断章525

 “ネガティヴ・キャンペーン”の域を出ない、単なる現状批判だけが得意な日本の大学知識人(とくに「左翼」知識人)たち。彼らが威張れるのは、日本国内だけである。世界標準から見ると、本物の知識人は日本にはほとんどいない。

 わたしが、「日本の知識階級くらい不幸でみじめな人間はありません」と言っても、「ふんっ。ネトウヨ風情が偉そうに」と、唾棄されるだけである。

 そこで、「福田 恒存さんが、昔、そう言ったんですよ」とつけくわえ、有名人を楯にする卑怯者。それは、わたしです(おもさげながんす)。

 

 断章524のズビグネフ・ブレジンスキー(1928~2017)は、「アメリカの政治学者である。1966年から1968年まで、リンドン・ジョンソン大統領の大統領顧問を務め、1977年から1981年までカーター大統領時代の第10代国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めたことで知られる。ポーランド出身、カナダ育ち。1958年にアメリカ市民権を取得。ポーランドの外交官だった父のタデウシュ・ブジェジンスキは1931年から1935年までベルリンに赴任、ズビグネフも父と共にドイツで過ごし、ナチス党の台頭とその強引な政治手法を目撃した。

 その後、父のタデウシュは一家とともにモスクワに赴任。当時のソビエト連邦ではスターリンによる“大粛清”の嵐が吹き荒れており、ズビグニェフはまたもや独裁者による恐怖政治を目撃することとなった。

 その後、父タデウシュは1938年にカナダへ赴任することになり、一家もカナダに移住、1939年にドイツがポーランドに侵攻したため、一家はポーランドに帰国できなくなった。第二次大戦後も共産主義者によって祖国ポーランドが支配されたため帰国が実現することはなかった」(Wikipediaを再構成)。

 アメリカには、こうした貴重な経験とそれを踏まえた広い視野をもつ知識人たちがいる。

 

 ズビグネフ・ブレジンスキーは、たくさん本を書いている。そのなかには、1956年の『ソビエト全体主義と粛清』や1989年の『大いなる失敗 ―― 20世紀における共産主義の誕生と終焉』がある。

 ソ連は、「初期の段階から失敗だった。すなわち土地、家畜、農機具を国有化して国有農場・集団農場で農民を働かせようとしたが、農民はこれに反発し農作業をサボタージュした。その結果、農産物生産は農地の私有制の時代と比較して大きく落ち込んだ。にもかかわらず、輸出に回すために農産物は強奪された。その結果ウクライナで2,000万人が餓死した。他の産業部門においても労働のインセンティブのない職場ではサボタージュが蔓延(まんえん)して生産性は極端に落ち込んだ。下級官僚は咎(とが)められることを恐れて中央政府には虚偽の報告をした。工業製品の質と量はお粗末で輸出競争力は無かった」。

 

 マルクス主義は、まさしくひとつの“宗教”であり、ひとたびハマリ込んでしまうと、マルクス主義というメガネを通してしか世界(社会)を見なくなる。異教徒(庶民、他党派、ときには党内のヒラ党員)の話を聞く耳を、もたない。

 とくに日本共産党は、“マルクス真理教”の劣化版である“スターリン主義”に深く囚(とら)われていた。だから、ソ連の悪事(ファクト)が暴露されても、「帝国主義者のデマ」だと激しく排撃していたのである。

 日本共産党・不破 哲三は、上記ブレジンスキーと同じ頃の1987年に出版された自著においても、「今から50年前、1936年。その時には、ソ連に最初の社会主義国がすでに成立していました」「それからさらに50年たった今日ではどうでしょうか。社会主義国はもはやソ連だけではなく、ヨーロッパにもアジアにも、ラテンアメリカにも、社会主義の道にふみだす国ぐにが生まれました」と、教条主義的な発言に終始していた。

 これらの(すでに成立した)「最初の社会主義国」や「社会主義国は・・・ヨーロッパにもアジアにも、ラテンアメリカにも、・・・生まれました」(不破 哲三)は、いったいどこに行ってしまったのか?