断章551

 19世紀のロシアでは、あまたの人びとが、ツァーリ専制権力との戦いに生涯を捧げた。戦いの記憶と記録は、受け継がれる。

 

 レーニンは、やがてロシア経済の工業化にともなう労働者運動の活発化などを踏まえて、(「人民主義」ではなく)マルクス主義に立脚することになる。

 その前に、若きレーニンは、兄アレクサンドルの死後、1887年秋にカザン大学のラザール・ボゴラズのサークルと、1888年秋にマリア・ チェトヴェルゴヴァのサークルと、そしてサマラ時代には、N・ドルゴフやザイチネフスキージャコバン派的信条をもつスクリャレンコのサークルと接触していた。まだ若かったレーニンは、その過程で、革命家としての行動規範・行動規則・活動スタイル ―― 中国共産党風にいえば、「作風」である ―― や、非公然・非合法活動のスキル・テクニック、さらにロシア革命運動の歴史などをどん欲に吸収しただろう。

 

 たとえば、レーニンたち、ロシア社会民主労働党ソ連共産党の前身)が1900年12月1日に発刊した機関紙の名称は、『イスクラ』(火花)である。これは、プーシキンが流刑中のデカブリストたちに捧げた「シベリアへ送る詩」に答えて、1827年にアレクサンドル・オドエフスキーが書いた詩「プーシキンに答える」に由来するという。

 

 〈シベリアの鉱道深く 誇り高く耐えよ おん身らの悲しい骨折りと 気高い志は    消えることはない〉(プーシキン

 〈予言の歌のひびきは 燃えさかってここにとどいた 剣に差しのべられたわれらの手は むなしく鎖に捉えられた だが詩人よ、安んじてほしい 運命の鎖をわれわれは誇る 牢獄のとびらのかげで 心はツァーリをあざ笑う

 われわれの悲しい骨折りは消えない 火花から炎が燃え上がるだろう〉

(オドエフスキー)

 

【参考】

 「ストルーヴェの定式化によれば、『人民主義』とは、ロシアの19世紀後半の農民社会主義をさし、ロシアが資本主義の発展段階を経ずに、アルテリと農民共同体から直接に社会主義へと移行することができると考えているものを指す。それはゲルツェンとチェルヌイシェフスキーから鼓舞され、ラブロフとバクーニン、トカチョフの戦略から成り立っており、『人民のなかへ』運動に始まり『人民の意志』派のテロルで頂点に達した」(桂木 健次)。