断章549

 専制と「土地と自由」(ナロードニキ)の、殺るか殺られるかの対決はつづいた。

 もともとロシア帝国専制ロマノフ朝)の弾圧・拷問は酷(ひど)かった。

 「1866年には、被疑者に、一週間も睡眠を与えないという不眠の拷問が行われている。これは、肉体的な拷問が試行錯誤された後での、かなり洗練された拷問である。ピョートル・クロポトキンは自書で、『ロシアの政治は抑圧的であり、それは、暗く、寒く、豊饒な海から遠いという風土と、猜疑心、復讐心の強いロマノフ家の遺伝的特質に原因がある』と述べている。言論弾圧、言いがかりのような逮捕、拘禁、拷問、流刑、死刑は日常風景で、スパイは全階級に放たれている」(Wikipedia)というありさまだった。

 

 官憲の弾圧、多くのメンバーの検挙によって、慈善活動や宣伝活動に限界を感じたメンバーの多くは、テロ活動に傾斜していく。それに反対するゲオルグ・V・プレハーノフたちとの路線対立は、1879年の春に表面化する。サラトフから来たソロヴィヨフが、「土地と自由」に皇帝暗殺の援助を求めたときである。

 「はげしい討論ののち、組織として援助しないが、個々のメンバーが援助するのはかまわないという妥協におちついた。4月2日にソロヴィヨフは散歩中の皇帝に5発の銃弾をはなったが、どれもあたらなかった。ソロヴィヨフはその場で服毒したが果たせず、かれの追及から多数のメンバーが逮捕された。プレハーノフは、これ以上テロをつづけるかどうか大会で決着をつけようと提案した」(松田 道雄、前掲書を再構成)。路線対立は、「土地と自由」の分裂にいたる。

 

 テロ容認派は、「1879年8月、『土地と自由』(ゼムリャ・イ・ウォーリャ)のウォーリャをとって、『ナロードナヤ・ウォーリャ』(人民の意志)という名称の組織をつくった。ウォーリャには、自由と意志との両方の意味がある。・・・一方、プレハーノフたちは、『土地総割替』(チョールヌイ・ペレジェル)派を組織した。

 プレハーノフたち『土地総割替』派は、機関誌の秘密印刷所に対する手入れによってメンバーの多くを検挙され、また、『人民の意志』派によるテロがつづくかぎりこのまま運動はつづけられないとして、やがて亡命した」(同前)。

 

 「『人民の意志』派は、都市でのテロ活動を中心とする政治闘争を当面の戦術とし、組織による帝政打倒、政権奪取、普通選挙の実施、憲法制定議会、社会主義の樹立という革命路線を主張した。

 『人民の意志』派には、資本主義の発展が農村共同体の破壊を促進しており、革命をいまやらなければ、永久に共同体再生の道が失われるという切迫感があり、権力の頂点に打撃を加える方法として皇帝の暗殺が、早くから考えられていた。それが組織によって確認されたのは1879年8月26日であった」(世界大百科事典などを再構成)。

 「1879年11月、クリミアから帰還する皇帝を狙って、皇帝専用列車爆破を計画するが失敗。翌年には冬宮爆破事件をおこしたが皇帝殺害には失敗した。しかし、1881年3月1日、ソフィア・ペロフスカヤ指揮のもと、アレクサンドル2世の暗殺に成功した」(Wikipedia)。

 

 「後継のアレクサンドル3世は、『この悲しみのなかに、神は命じ給う。大胆に政府の舵をとれ。聖なる摂理を信ぜよ。専制権力の力と真理を信ぜよ。人民の幸福のために、あらゆる障害を排して専制権力を強固にすることがわれわれの使命である』と、声明した」(松田 道雄、前掲書)。

 政府は暗殺の主導者を逮捕して絞首刑にし、さらなる弾圧を加えた。「人民の意志」派は、衰弱し機能不全におちいり、さらに地下に潜った。

 その6年後の1887年3月1日、アレクサンドル・ウリヤノフ(ウラジーミル・レーニンの兄である!)らは、皇帝アレクサンドル3世の暗殺に失敗し、組織は壊滅した。

 

 革命(思想)は空から降ってはこない。

 ロムルスとレムスは、狼の乳を飲み、狼から狩りを学んで育ったという。まもなく歴史の舞台にあがってくるレーニンボリシェビキたちは、ナロードニキの何を受け継ぎ、ナロードニキから何を学んだのだろうか?