断章548

 「『人民のなかへ』の運動は失敗した。農民は立ちあがらなかった。学生たちはこの大実験から学ぶべく反省をはじめた」(松田 道雄)。

 たとえば、「チャイコフスキー団」の盛衰に、運動の経過を見てみよう。

 「1869年、マルク・ナタンソン、オリガ・ナタンソン、ニコライ・チャイコフスキーが、結成した『チャイコフスキー団』は、設立当初は読書会、書籍配布の為の組織であった。次いで、団員たちは農民や労働者の扮装で、農民のなかへ入って行く。

 中期には、啓蒙目的で、集団農場や工場が作られ、そこで貴族や富豪の子弟が、農民や労働者と一緒に汗を流した。ソフィア・ペトロフスカヤは貴族の娘でありながら、職人の妻という触れ込みで、木綿の頭巾に木綿の衣裳、男物の長靴を履いて参加した。川から桶に水を汲んで運びさえした。紡績工場でみじめに働く女工に混じり、一日16時間も働く女子大生もいた。セルデュコフという大学生は、砲兵工廠に潜り込み、そこで読書会を組織した。

 ・・・弾圧を受けると、秘密の連絡網を作り、逮捕された同志の脱走を計画して実行した。

 辻々に見張りを置き、官憲が追いかけてこられぬよう周辺の馬車をすべて借りきっての脱走計画が実行された。その人員、予算を思うに、貴族の子弟ではなく、すでに遺産を相続した貴族そのものが多く在籍した事をうかがわせる。

 後期になると、各地に支部を作り、連絡員を配し、支部ごとに活動を行うようになる。官憲に見つかると、その支部は廃して、メンバーはよその都市へ移動する。危険が大きい場合は、外国へ亡命する。この体制は、のちの革命組織に継承されている。1874年にメンバーの大部分が検挙されて、193人裁判にかけられ、チャイコフスキーアメリカに逃亡したため組織としては壊滅した(ただし、193人裁判は被告の虐待が問題となり、起訴されたメンバーの大部分は無罪となった)。チャイコフスキー団の主要メンバーは、後の(第二次)『土地と自由』、『人民の意志』と重なる」(Wikipediaから引用)。

 

 1876年の夏、「土地と自由」(第二次)の組織づくりが始まった。

 「1878年1月、ペテルブルクの知事トレポフ将軍による政治犯への虐待に対する報復から、ナロードニキのテロが始まった。

 2月にはキエフでオシレンスキーらが検事を狙撃して失敗。3月には同じキエフでポプコが憲兵副隊長を路上で刺殺。8月にはクラフチンスキーが秘密警察の長官を刺殺した。

 9月になってペテルブルクの組織が壊滅的な打撃を受けたのを立て直したアレクサンドル・ D ・ミハイロフは、組織の健在を示そうとして10月から機関誌を定期的に出し始めた。この機関誌名として1860年代と同じ『土地と自由』を採用したので、この組織も『土地と自由』(第二次)と呼ばれることになった。その第一号にクラフチンスキーの執筆による綱領が発表された。

 この綱領は、当時の革命的なロシアの青年の気持ちを実によくあらわしている。『人民のなかへ』の失敗から教訓をくみとろうとして模索しつつあるが、政府の激しい追及にテロを否定しつつテロをつづけ、混乱と逃亡のなかに、革命家と人民との関係や当面の革命の目標について十分に考えられないでいる困惑がみられる。(中略)

 『土地と自由』のメンバーは右往左往していたのだ。官憲の追及にたいする抵抗からテロにうつらねばならなかったグループ、農村のなかにじっくり腰をおちつけて啓蒙とセツルメント活動(注:ボランティアが居住し、日常生活をつうじて住民に働きかけ、その生活の改善を図る社会活動)をするグループ、都市労働者のなかに宣伝をするグループ。1870年代の終わりの頃、さまざまな模索がつづいた」(松田 道雄『世界の歴史22 ロシア革命』を再構成)。