断章263

 「我々は、何度も読み直して彼の言葉を味わうべきだ。日常のビジネスや生活で忘れてしまいがちだが大事なことを、時にとてもシャープな表現で、しっかり思い出させてくれる。『ドラッカーからはもう学ぶことがない』などという日本人経営者がいるとすれば、それは大切なことを思い出す貴重な機会をみすみす逃しているのだ」。

 「またドラッカーはこうも言った。『ビジネスはたった2つの基本的な機能からなる。イノベーションマーケティングだ』。どちらか一方が強くても企業は成功できない。両方とも強い必要がある、と」(フィリップ・コトラー by日経ビジネス)。

 油断大敵である。経営者が、「ドラッカーからはもう学ぶことがない」と公言するような企業は、敗退するだろう。

 

 例えば、すでに「米アップルのスマートフォンの構成部品で韓国メーカーの存在感が高まっている。新型の『iPhone12』を分解調査したところ、価格ベースで韓国製の比率が27%と前モデル(iPhone11)と比べ9ポイント上昇し、日本との差が広がった。サムスン電子製を中心に有機ELパネルの採用が増えた。日本が強みを持つ分野が限られてきた」(2020/11/21 日本経済新聞)という情勢である。

 

 今のところ日本が優位を保っているロボット技術もあっという間に勢力図をひっくり返されるかもしれない。

 「新型コロナウイルスの感染拡大で患者が急増したスペインのある病院。疲れを知らぬ体力で猛活躍する看護士がいる。通常の看護士と服装が違った。白の代わりに黄色いガウンと帽子を着用した。業務にとても熱中したのか目も赤く充血している。ところが詳しく見ると…? そうだ。ロボットだ。重要なのはこれらの国籍(製造国)だ。中国だ。18日に中国環球時報はスペインFM96.7ニュースを引用し、スペインの各病院に中国製看護ロボットが投入され活躍中だと伝えた。スペインでも新型コロナウイルスが再拡散している。当然医療陣の業務負担が大きい。特に患者と緊密に接触する看護士が感染リスクに最もさらされている。上海のある企業が作ったこの看護士ロボットが医療陣の負担を減らし好評を受けているという。モデルは2種類だ。簡易型は患者に薬や食事を伝達する。高級型は病室内消毒、患者の状況観察、医師と患者の対話連結業務を担う。購入費用は簡易型が13,000ユーロ、高級型は4万ユーロだ。それでも人気爆発だ。高齢者療養施設でも注文要請をしている。

 ロボット分野も中国の威勢がすごい。韓国科学技術政策研究院(STEPI)が昨年末に出した報告書を見よう。中国はすでに2011年に日本を追い越して世界最大のロボット生産国になった。2015年には世界の産業用ロボット市場の4分の1に達する販売高を上げた。しかもロボットは2025年に製造業強国になるという『中国製造2025』政策の核心分野だ。

 昨年の世界のロボット市場規模は294億ドルだ。このうち159億ドルと最も大きな割合を占めるのが産業用ロボットで、中国製の割合は30%だ。STEPIは『中国の自動車産業が発展し需要が爆発的に増えている』と分析した。サービスロボットも中国内の物流流通・サービス革命が進みながら急成長中だ。2016年から増えている無人書店、無人商店、無人レストランで猛活躍する。これまで1位と2位である米国と日本企業を脅かす。

 スペインの看護ロボットはこうした中国の成長を見せる端的な例だ。しかしこの成長はまだ中身が空っぽだ。『核心技術』が国産化できていないからだ。ロボット市場の『越えられない壁』は日本だ。STEPIによると日本は現在ロボット関連特許の43%を持っている。2位である米国の20%を2倍以上上回っている。中国は韓国の12.7%に次ぐ4位で9.6%だ。実際にロボットを動かすロボットの核心部品とモジュール関連特許のシェアで見れば格差はさらに広がる。

 ファナックが20.2%、安川電機が15.9%、ホンダが13.6%と日本企業3社が特許全体の半分以上を占めている。50%を寡占している。このほかにセイコーエプソンが6.9%、パナソニックが5.0%、ソニーが4.9%、三菱が3.7%などだ。上位10社のうち韓国のサムスン電子(9.0%)を除くとすべて日本企業だ。当然中国企業はない。俗な言い方をすれば名刺を差し出こともできない。いくら中国製ロボットが世界にその名をとどろかせているとはいっても内部の部品と作動技術の権利はほとんどが日本にあるという意味だ。表側は中国製、中身は日本製と言っても過言ではない 報告書をまとめたSTEPIのペク・ソイン副研究委員が『中国のロボット製造技術は一部を除き自国企業の技術競争力が弱く、核心部品は国産化が遅れておりグローバルサプライチェーンの下端で停滞している』という評価をした理由だ。ペク副研究委員は『現在中国では無分別なロボット団地設立による供給過剰現象が発生しており政策支援の効果性が低い』と付け加えた。

 それでも無視することはできない。やはり中国の執拗さのためだ。『できるまでやる』『できなければ金で買ってでも成し遂げる』(引用者注:それでもダメなら産業スパイやサイバー攻撃知財窃盗する)という戦略はロボット分野でも通用できる。実際に2016年に家電企業の美的はドイツのKUKAとイスラエルのロボットベンチャー、サーボトロニクスを買収した。また別の企業の埃夫特もイタリアのロボット関連企業2社を買収した。ロボット関連技術が最初から無いわけではない。ペク副研究委員は、『中国は人工知能とコンピュータビジョンなどロボットのソフトウエア分野では中国企業と大学が優秀な成果を出している』と話す。いわば今後ロボットの未来領域を担当する技術だ。ここに実際のロボット稼動技術まで国産化するならば、中国のロボット技術はあっという間に勢力図をひっくり返すかもしれない」(2020/08/26 韓国・中央日報)。

断章262

 日本共産党と同伴者たちは、中国共産党全体主義であることを認めようとしない。なぜなら、中国が全体主義国家であることを認めてしまえば、彼らの共産主義(マルクス主義)が、最終的に失敗し敗北したことを認めることになるからである。しかし、目を閉じても得られるものはない。逆にこの現実を見る力を持たないことが今日彼らを無能な存在にしているのである。

 

 以下は、『「経済人」の終わり』最終章「未来」の抜粋・再構成である。

 「マルクス社会主義による自由と平等の実現という信条が完全に崩れた結果、すでにソ連は、自由と平等が存在しない完全否定の社会、全体主義の社会、悪しき脱経済至上主義社会への道を歩んでいる。それはドイツと同じ道である(引用者注:1939年、ドラッカー29歳のときの論考である)。

 ソ連もまた、自らの権力を正当化するために、国内および国外に仮想の敵を捏造しなければならなくなった。すでにソ連は、粛清開始後、ファシズム全体主義国と同じように、自ら捏造した悪魔に対する聖戦下にある。ソ連が理念的にいかにドイツに近づいているかは、組織の目的化と賛美、無謬の魔性的指導者としてのスターリンへの個人崇拝に示されている。ソ連においても、ドイツと同じように、組織の目的化と個人崇拝だけが意味をもつ信仰箇条である。

 革命の理念的、社会的力学は、国内政策、外交政策のいずれに対しても、決定的な影響を与える。政治、軍事、経済さえ従属的な地位に置かれる。理念的、社会的力学が決定的な要因となることこそ、社会の基本構造の変化という真の革命に顕著な特徴である。

 したがって、たとえ他のあらゆる要因が逆の方向を示したとしても、独ソ間の同盟は、ほとんど不可避のことに思われる。直ちに戦争が勃発しないかぎり、この同盟は必ず結ばれる。おそらく来年、1940年には結ばれる。万一同盟が結ばれなくとも、両国が急速に接近していくことは間違いない。(中略)

 ファシズム全体主義の脅威に対抗するための唯一の方策は、われわれ自身の社会に新しい革命的な力を呼び起こすことである。もちろん、そのような力は簡単に呼び起こせるものではない。新しい秩序を簡単に生み出す方法はない。

 西ヨーロッパの民主主義諸国は、ブルジョワ資本主義、マルクス社会主義、あるいは両者の折衷によっては、ファシズム全体主義を打ち破ることができないことを認識すべきである。それを打ち破れるのは、自由と平等の社会についての非経済的な新しい概念の確立しかない。

 一人ひとりの人間の自由と平等の実現を目指す新しい脱経済至上主義社会を生み出さないかぎり、西ヨーロッパの民主主義の下にある国自身がファシズム全体主義に陥る恐れさえある」。

断章261

 「共産主義の下では、権力はほとんどもっぱら目的である。なぜならば、権力はあらゆる特権の源泉であり、特権を保証するものだからである。権力により、権力を通じて、国富にたいする支配階級の物質的特権や所有権が実現される。権力は理念の価値を決定し、理念の発表を抑え、あるいは許す。このようにして、現代共産主義における権力は他のあらゆる種類の権力と異なり、他のあらゆる制度と異なっているのである。

 権力が共産主義のもっとも本質的な構成要素だからこそ、共産主義は、全体主義的で、排他的で孤立しているのである」(ミロバン・ジラス)。

 

 全体主義には、赤と黒の2種類がある。ファシズム(ナチズム)は黒い全体主義である。共産主義マルクス主義)は赤い(紅い)全体主義である。したがって、P・ドラッカーの『「経済人」の終わり』は、共産主義マルクス主義)についても多くのことを示唆する。

 以下は、『「経済人」の終わり』第7章の引用・紹介である。

 「ファシズム全体主義軍国主義による脱経済至上主義社会は、失業という名の魔物を退治することには成功した。しかしその成功も、現代社会のもう一匹の魔物たる戦争を合理的で意義あるもの、望ましいものとして位置づけられなければ意味を失う。それどころか、ファシズム全体主義は、ブルジョワ資本主義とマルクス社会主義が経済発展を自らの目的としたように、戦争を自らの目的として正当化することができなければならない。しかも、もはや階級闘争や経済的不平等は重要な問題ではないとしなければならない。さもなければ奇跡を起こせない。

 ファシズム全体主義の社会観は、戦争を正当かつ至善のものと位置づけない限り幻想に終わる。したがって、ヒトラームッソリーニの社会的、政治的殿堂の全体が、人間の本質としての『英雄人』の概念の上に構築されているのは当然である。『英雄人』なるファシズム全体主義の概念の中核にあるものは、個々の人間の犠牲の正当化である。

 ところが社会そのものに対しては、『英雄人』の概念ではいかなる目的も意味ももたらすことができない。それどころか、犠牲の正当化は社会を否定するのみならず社会を破壊する。個人にとっては危険に生きることもよい。しかし社会は何よりもまして継続しなければならない。危機に陥ることなく継続できなければならない。

 新しい秩序を生み出そうとするファシズム全体主義の試みが失敗に終わるのは、この矛盾のためである。失業という魔物は退治した。戦争の合理性も明らかにした。しかし戦争の合理化は、社会そのものを無意味なものとしなければ成立しない。よって、奇跡は不可能である。〈中略〉

 こうしてファシズム全体主義は、『英雄人』なる破壊的な概念の上に社会を構築することに失敗したため、ほとんど機能しなくなっている。軍国主義を脱経済至上主義社会の調和によって代替することに失敗したため、階級闘争の問題も解決できないでいる。

 失業という魔物を退治するための軍拡さえ、失業と同じように不合理となる。その結果、消費における犠牲を正当化する唯一の基盤が崩壊する。しかし、それでも軍拡は最高目的として遂行し続けなければならない。脱経済至上主義社会は軍国主義を基盤とし続けなければならない。他にとるべき道はない。このような状況では逃げ道は一つしかない。すべてを他の者のせいにすることである。〈中略〉

 新しい秩序を創造しえないことが明らかとなれば、悪魔の化身たる特定の人物への攻撃による自己の正当化が、唯一とまではいかなくとも主たる信条とならざるをない。まさにそれらの敵との闘いこそ唯一の目的とされる。

 そしてついには、彼らからの脅威の絶滅こそがファシズム全体主義の正当化の事由とされる。彼らに対する呵責なき闘いこそ、いかなる野蛮、暴力、欺瞞をも許容し、かつ当然とする聖なる任務である。〈中略〉

 ここにおいて、反ユダヤ主義は、いかなる説明も抜きにして、世界に合理を回復しナチズム社会を正当化するための有効な悪魔論となる。反ユダヤ主義は、それが野蛮で残虐であるがゆえにではなく、まさにファシズム全体主義革命の力学と論理を示しているがゆえに、徹底した分析を必要とする。しかも、それは今日最も理解されていない部分である。〈中略〉

 ナチス反ユダヤ主義に驚き、激昂する民主主義国の側で行われている説明は不十分である。ナチスユダヤ人迫害は史上類のない卑劣な暴虐であると定義してみても、単なる事実の報告、非難にすぎない。説明にはなっていない。『ドイツは常に反ユダヤ的であった』との見方にいたっては、戦前やヒトラー前のドイツについての無知以外の何物でもない。

 確かに、戦前のドイツやオーストリアにも、ユダヤ人に対する差別は存在した。彼らは、婚姻権と就業権という二つの重要な権利のうち、就業権のほうは完全には持っていなかった。ユダヤ人は、軍の将校、判事、大学教授にはなれなかった。だが、婚姻権については、ドイツでは完全に認められていた。ヒトラー前の時代、ドイツ系ユダヤ人はドイツを最も反ユダヤ的でない国と考えていた。〈中略〉

 人種的反ユダヤ主義の本当の原因は、当時のブルジョワ階級をめぐる社会構造が、ユダヤ人を邪悪なブルジョワ資本主義と自由主義の代表としてとらえることを、必然とまではいかなくとも可能にしたことにある。ドイツのブルジョワ階級は自らの革命によって力を得たのではなかった。西ヨーロッパ諸国とは異なり、上からの力によって解放されたにすぎなかった。それは社会目的の一つとして解放されたのではなかった。単に国家統一の過程で実現したにすぎなかった。したがって、ドイツではブルジョワ階級が支配階級となったことはなかった。社会と政治の支配者は貴族階級だった。さらには高級官僚と高級将校という爵位なき貴族階級だった。〈中略〉

 このような状況に加えて、上流階級は、ブルジョワ階級が権威ある階級に育つことを自らの地位を脅かしかねないとして意図的に妨害した。こうしてドイツのブルジョワ階級は、数も少なく政治的に無力だっただけでなく、社会的にも差別される日陰の存在になっていた。ところが、ブルジョワ資本主義社会の急速な発展がそのブルジョワ階級を必要とするようになった。〈中略〉

 こうしてユダヤ人とキリスト教ブルジョワ階級は、社会的、政治的には差別されながら、経済的、知的には大きな力をもつ上層中流階級として一体化した。キリスト教ブルジョワ階級は、同じ差別を受けている者として、また同じ民主主義の原理に立ち差別に抵抗する者として、ユダヤブルジョワ階級を対等の存在と見た。これに対しユダヤブルジョワ階級の側では、与えられた平等な地位のゆえに、それまで迫害と差別への対抗手段としていた排他性を払拭していった。

 両者いずれの側においても人種を超えた事業上のパートナーシップや交際、婚姻が自然なこととなった。さらにユダヤ人の側では、平等の実現にとって唯一の障害となっていた宗教を変えることについてさえ抵抗感を失っていった。これらの結果、ユダヤ人社会そのものの影が薄くなっていった。50年か100年もすれば、ドイツやオーストリアには純粋なユダヤ人は一人もいないということになりそうだった。〈中略〉

 ドイツ人とユダヤ人の結婚が見られるのは、キリスト教徒とユダヤ人が共同戦線を張っているブルジョワ階級だけである。ドイツ人ブルジョワ階級との結婚がユダヤ人の際立った特徴であるとするならば、ユダヤ人との結婚がドイツ人ブルジョワ階級の際立った特徴とまでなっている。この事実が、第一次大戦ブルジョワ階級が力を獲得したとき重要な意味を持つことになった。〈中略〉

 ブルジョワ階級がしくじり彼らのもとで魔物たちが現れたとき、それをユダヤ人のせいにし、ユダヤ人を悪魔の化身であるとする考えが合理的なこととなった。しかもその考えは人種論に基づく必要があった。ユダヤ人の血に汚されているためとしなければならなかった。さもなければ、多くのキリスト教徒がブルジョワ資本主義の教義に忠誠を尽くしていることが、反ユダヤ主義そのものを意味のないものにしてしまう。ユダヤ人が洗礼によって逃れることができないようにするためにも、人種を問題にしなければならなかった。人種論によってのみ、矯正不能な邪悪さをユダヤ人の本質を規定することができる。こうしてユダヤ人の仮面を剥ぎ、恐慌と失業と戦争という魔物たちを生み出す悪魔であることを明らかにした以上、あらゆる残虐さをもって迫害することが当然のことになる。ユダヤ人が悪魔であるならば人道的配慮も不要となる」。

 

 「旧秩序の魔物たちとの闘いにおいて、ファシズム全体主義が提示した唯一の答えが新しい悪魔の存在だった。しかし、自作の悪魔に対する聖戦では、前向きの信条を生み出すことはできない。新しい秩序をもたらすことはできない。したがって、新しい秩序への要求が強まるほど、ファシズム全体主義は組織を最高のものとして強化し、あらゆるものをその組織に従属させる。〈中略〉ファシズム全体主義の組織において、下部機構は意思決定と自由裁量をまったく禁じられている。自らの発意によっては何事も行うことができない。〈中略〉

 社会的には、組織に至高の地位を与えることは、最も強力な階級として、膨大な内務官僚群を生み出すことを意味する。彼らの仕事は組織を作ることだけである。外国為替、原材料調達、党務、労働戦線、農民戦線などを監督する250万人に及ぶ新しい特権階級が、組織の過剰を加速化させる。しかも、ただでさえ脆いファシズム全体主義の社会的バランスを危うくする。〈中略〉

 新しい秩序を生み出せず、さりとて秩序の代わりにつくり出した組織も役に立たないという宿命から、ファシズム全体主義の最も矛盾し、かつ最も当惑させられる最も重要な特性が生ずる。すなわちファシズム全体主義に対する大衆の態度である。

 一方において、ドイツとイタリアでは、大衆の圧倒的多数が現政権を支持しているという。ところがその一方において、彼らの圧倒的多数が現政権に対してきわめて不満であるという。いずれかが間違っているはずである。だが実際にはいずれも正しい。大衆は不安であればあるほど政権への支持を強める。この矛盾を解く鍵は、大衆には現政権以外に選択肢がないことにある。〈中略〉

 こうして、ファシズム全体主義国の大衆が耐えるべき緊張の度合いは高まっていく。大衆は心底不満であって、絶望し、幻滅している。しかし、まさに不満を持ち、幻滅しているからこそ、全力をもってファシズム全体主義への信仰を深めていかざるをえない。いま手にしているものを失うならば、何が手元に残るというのか。彼らは、体に悪いことを知りつつ、夢幻と忘却を求めて麻薬の量を増やす麻薬中毒患者と同じである。ここにこそ、ファシズム全体主義における集会、デモ、行進がことごとく異常な興奮に包まれる原因がある。〈中略〉

 幻想であることを知りながらそれを信じなければならないことの矛盾を解くことは、いかなる人間にもいかなる組織にもできない。ファシズム全体主義に神は存在しない。しかしファシズム全体主義は自らの矛盾を解くために、悪魔、超人、魔術師を必要とする。ここにおいて、邪を正、偽を真、幻を現実、空虚を実体に変えるために、『指導者』が必要となる。〈中略〉

 はからずも、大衆の絶望が指導者原理を生み出し、ファシズム全体主義の教義を強化することとなった。ファシズム全体主義における指導者の役割は、自らのカリスマ性によって社会を救うことにある。〈中略〉

 秩序のない世界や意味のない社会にじっと耐えるということをせず、得られぬ自由と平等を追求する努力は西洋の歴史の原動力である。西洋に特有の原動力と救世の精神が、西洋の文明を動かしてきたことは間違いない。

 ファシズム全体主義の革命が、新しい秩序の始まりを意味するわけではない。それは古い秩序が崩壊した結果にすぎない。それは奇跡ではない。新しい秩序、新しい人間観が現れたら最後、たちまちにして消え去る蜃気楼である」。

断章260

 「20世紀の幕が下りる頃、ファシズム共産主義自由主義イデオロギー上の激しい戦いは、自由主義の圧勝に終わったかに見えた。民主政治、人権、自由市場資本主義が全世界を制覇することを運命づけられているように思えた。だが例によって、歴史は意外な展開を見せ、ファシズム共産主義が崩壊した後、今度は自由主義が窮地に陥っている。では、私たちはどこに向かっているのか?」(ユヴァル・ノア・ハラリ『21 Lessons』)

 「わたしたちは、1930年代的危機に際会している」(レイ・ダリオ)のだとすれば、「ファシズム共産主義自由主義による三つどもえの激しい戦いの再来になるだろう」と、わたしは答える。だから、『「経済人」の終わり』を読んでいる。

 

 以下、『「経済人」の終わり』第6章を引用・紹介をする。P・ドラッカーは、ファシズム全体主義経済の要諦を《完全雇用》であると明かした。

 「ドイツとイタリアのファシズム全体主義において、最も重要でありながら最も知られていない側面が、個々の人間の位置と役割を、経済的な満足、報酬、報奨ではなく、非経済的な満足、報酬、報奨によって規定していることである。

 産業社会の脱経済化はファシズム全体主義が目指す奇跡である。それは産業社会を脱経済化することによって、不平等たらざるをえない産業社会の維持を可能にしかつ妥当なものにしようとする。これは、少なくともドイツにおいては緊急の課題だった。1932年には、ドイツはもはやブルジョワ資本主義を続けることが不可能になっていた。(中略)

 ドイツ人の大多数がマルクス社会主義に対する大戦直後の信頼を失っていた。しかしブルジョワ資本主義にも絶望していた。彼らは、ブルジョワ資本主義への復帰もマルクス社会主義の革命も望んでいなかった。絶望のあまり、混乱さえ望んでいた。そして何よりも、階級闘争なるものが行き先のない無意味なものであることを知っていた。(中略)

 ファシズムに関わるいくつかの疑問は、当時のドイツとイタリアに課されていたこのような課題から説明することができる。いかなる階級が、ファシズムを権力の座につけたかとの問いには意味がない。いかなる階級も、それだけではファシズムに権力を与えることができなかった。産業家がヒトラームッソリーニの後ろ盾になったとの説は、大衆が支持したという説と同様、間違いである。(中略)

 ヒトラーを支持したものは、下層中流階級、肉体労働者、農民など、当時の社会の不合理と悪魔性に苦しめられていた層だった。ナチスの資金の4分の3は、1930年以降でさえ農民や失業者が毎週支払う党費や、大衆集会への参加費によって賄われていた。

 ファシズム全体主義は資本主義と社会主義のいずれをも無効と断定しそれら二つの主義を超えて経済的要因に依らない社会の実現を追求する。(中略)

 ファシズム全体主義は、私的利潤を中心にすえるブルジョワ資本主義だけでなく、私的利潤を否定するマルクス社会主義をも敵視する。両者に対する同時の敵視という矛盾した点に、ばかばかしいながらもファシズム全体主義の本質が正しく現れている。(中略)

 ファシズム全体主義は、社会的な必要に迫られて、生産のための機構を維持しつつ、非経済的な秩序と満足を中心にすえる脱経済至上主義社会を創造しなければならなくなった。その第一歩は、社会の恵まれない層に対し、恵まれた層の特権だった非経済的な贅沢を与えることだった。それは就業時間外の組織活動を通じて行われた。ドイツでは『楽しみの力』プログラムであり、イタリアでは『労働後』プログラムである。

 歓心を買うための褒美が用意された。演劇、オペラ、コンサートの切符、アルプスや外国への旅行、冬場の地中海やアフリカ、夏場のノルカップ岬への船旅などである。

 こうして、富と権力を持つ有閑階級特有の非経済的な『誇示的浪費』の機会を提供する。いずれも、経済的には価値がなくとも、社会的な地位を表すうえではきわめて大きな意味をもつ。経済的な不平等を補い、社会的な平等を実現する。厳存する経済的不平等を我慢させるうえで大きな役割を果たす。

 しかし、それら非経済的な報奨には、経済的な不平等そのものを意味ある必然のものに変えてみせるまでの力はない。問題の緩和には役立っても、問題そのものを解決し、なくすことはできない。これが、経済的に不平等な階級の間にも調和が必要であるとする社会有機体説が再び登場してくる所以である。(中略)

 今日のファシズム全体主義理論においては、諸々の階級は相互に補完し合うべき経済単位とされるだけではない。それぞれの経済的な役割、貢献、必要性とは関係なく、それぞれが実際に独立した社会的位置、役割、存在とされている。

 例えば、ドイツでは、農民は『民族の背骨』なる特別の地位を付与され、社会的な特権を与えられている。(中略)

 小農は、特別の法令によって保護され、諸々の演説、催事、祝祭において賞賛されるだけではない。町育ちの少年少女に彼らの下で一定期間働くことを命ずることによって、その地位を著しく高められている。(中略)

 他の階級についても、社会的位置は経済的な位置から分離された。しかもその社会的位置は、経済的な位置とは関係のない領域において規定されている。労働者階級の社会的地位、重要度、平等性は、メーデーを労働祝日と定め、かつそれをナチズムにおける最も重要な祝日とすることによって象徴された。農民が『民族の背骨』であるならば、労働者は『民族の精神』である。経済的地位などとは関係なく、いつでも自らを犠牲にする用意があり自己規律に富み禁欲的にして強靭な精神を持つ『英雄人』なる理想的人間像である。

 ブルジョワ階級にも、その地位を象徴するものとして、さらに別の非経済的地位が与えられている。彼らは『文化の担い手』である。企業家階級に対してさえ、英雄的概念としての『指導者原理』による相応の社会的位置が与えられている。

 ファシスト市民軍、突撃隊、親衛隊、ヒトラー青年団、各種婦人団体などの準軍事組織もまた、すべて非経済的目的のためのものである。それらの組織は、経済的に恵まれない層の人間が命令し、恵まれた層がそれに従うという生活場面を与える。いずれの準軍事組織でも、職場の長やその息子は、党歴が若干でも長い肉体労働者の下に、意図的に配属される。ドイツ国内では、適正と信頼性のみによって選抜されるはずの党幹部養成機関『指導者養成所』には、金持ちの子供は入れないことが常識である。

 私は、ナチス党内で高い地位にあるドイツ人産業家と、ローマ進撃前からムッソリーニ支持者であるイタリア人銀行家から、いずれも子供は陸軍の幼年学校に入れるつもりだといわれたことがある。さもなければ、ファシスト少年団に入れざるをえなくなり、上級生や同級生から手のこんだいじめを受けることは避けられないとのことだった。(中略)

 このような非経済的な優越性の発揮の仕組みと、階級間の妬みによるいじめは、成功している。それは、社会の下層において社会的な平等感をもたらすうえで役立っている。(中略)

 理屈のうえでは、経済的不平等を補うために社会的平等を用意することはできる。

 しかし、全体主義の各種の準軍事組織が、規模こそ成長し、社会的な嫉妬心の満足をますます重視しているにもかかわらず、徐々に影響力を失いつつあることは、観念だけで社会を構築することのできないことを明らかにした。とはいえ、それら準軍事組織は、非経済的な社会の基盤となるものが何であるかは示した。すなわち国そのものの軍国主義化だった。

 あらゆる経済活動と社会活動を軍事体制下に置くという軍国主義は、産業社会の形態を維持しつつ社会に対し非経済的な基盤を与えるという、きわめて重要な社会的役割を果たしうる。しかも同時に、完全雇用をもたらし、失業という魔物を退治する役割を果たす。(中略)

 ファシズム全体主義の体制は、資本主義でないことは明らかである。それはまさに所有と経営抜きの生産体制である。すべてが軍事的要請と軍事的機関に従属させられている。

 例えば、いかなる農地も分離分割が許されなくなった。分割、売却、担保差し入れは許されない。農民は農地にとどまらなければならない。移動はできなくなった。農地の交換もできない。しかも、農業社会の維持を正当化するための準軍事組織が、農民に対し完全な服従と命令の遵守を要求する。農民は、命令されたものを生産しなければならない。命令に背けば軍法会議である。そして、自らの生産した農産物を行政の命ずる価格で軍たる政府に売却しなければならない。農民は、社会的地位は守られたが経済的自立は奪われた。(中略)

 ファシズム全体主義社会は、経済目的を二義的に扱う。そこで、ファシズム全体主義そのものの有効性を問う前に、そのような社会において経済の実体はいかなるものになるか、経済を従属的な位置に置いたままその破局を防ぐことはできるか、という疑問に答えておかなければならない。(中略)

 ファシズム全体主義経済がブルジョワ資本主義経済と根本的に異なるところは、前者が、あらゆる経済目的を、ある一つの社会目的の手段として位置づけているところにある。すなわち完全雇用である。国民所得の増大や経済発展は結果にすぎない。〈中略〉

 ファシズム全体主義経済の奇跡は、もっぱら労働者階級の犠牲によって行われたとの説がある。現実は違う。(中略)

 実際は、犠牲を払わされているのは労働者階級以外の階級である。彼らは得るべき利益を強奪され、生活水準の低下を強いられている。今日生活水準の引き下げは、かつてその水準が高かった者、経済的に恵まれていた者ほど幅が大きい。(中略)

 最下層の人たちの経済状態はファシズム全体主義経済のもとで改善している。失業していた未熟練労働者や半熟練労働者は完全雇用政策によって助けられたし、労働者階級全体としての所得も増えた。ドイツでは一人ひとりの労働者の所得も減ってはいない。イタリアでもほとんど減っていない。(中略)

 企業利益は増大している。しかしほとんどの場合、経営者個人の所得は大幅に減少している。高い税率を課されるうえに、感謝の気持ちとして国と党に対する献金によって貢献することが期待されている。人によっては、所得税とは別に支払わされる現金が所得の40%にのぼる。しかも暗に伝えられてくる献金を値切ることは節税よりも難しい。献金の期待額について不服申し立ての道はない。こうしてファシズム全体主義国では、消費を4分の1削減し資本財生産への投資を倍増させた。〈中略〉

 完全雇用達成のために、ファシズム全体主義経済においては、消費の削減に加えて遊休設備と預貯金の活用が行われた。

 第一に、民間企業は資本市場から資金を調達することを事実上禁じられ、政府が長期資本市場を独占することになった。こうして民需生産への追加投資が不可能となった。

 第二に、あらゆる銀行と保険会社が公債の購入を強制された。製造業者も、内部留保の取り崩しによる公債の購入を命じられた。政府からの支払いも公債によって行われた。

 第三に、企業は資本財生産への投資を強制された。各種の輸入代替産業、製鉄所、石炭液化工場への資本参加である。

 ドイツとイタリアという2つのファシズム全体主義国において、その主たる目標としての完全雇用は実現された。かつての失業者のかなりの部分が、経済活動ではなく軍や党で働いているにすぎないとの指摘は、完全雇用政策の成功をいささかも傷つけない。事実の問題として、彼らは生産活動において生産的な仕事をするのと同じように、自分たちが意義ある仕事についているものと信じている。このことに意味がある。

 ファシズム全体主義社会は脱経済至上主義社会である。その目的は、軍国主義のための軍事的自足である」。

断章259

 「自由とは個人及び少数派の権利である。自由とは、その定義からして、必然的に個人ないし少数派が他と異なる行動をとることを禁じられることのない権利である。自由ならざる社会においては、他と異なるものは犯罪者である」(P・ドラッカー)。

 

 日本の自称「知識人」たちは、中国の真実から目をそむける、或いは無視する。現代中国を理解する核心は、それが中国共産党の“紅い全体主義”の支配下にあるということである。

 

 コロナ禍「事態の初期に若い医師がウイルスの深刻性を警告したが、中国政府はでたらめだと見なしてしまった。共産党一党独裁の危険性がすべて出たものだ。そして今、中国は新型コロナウイルス感染拡大を鎮圧したとして『大成功だ』『習近平国家主席の業績だ』と大きく宣伝している。中国の文化大革命時を思い起こさせる。中国政府とメディアは真実を伝えない。だから、国民は真実に基づいた理性的な判断ができない。これが中国の弱点だ」。

 中国では、「国民一人一人をリアルタイムで把握し、けん制することが可能だと明らかになった。つまり、歴史上のバイオコントロール(生物学的制御)、バイオサーベイランス(生物学的監視)が初めて可能な国が現れたのだ。このような全国民監視体制が可能な国は中国しかない」(船橋 洋一)。

 

 「中国・武漢市で新型コロナウイルスの感染流行について報じた、市民ジャーナリストで元弁護士の張展氏(37)が28日、裁判で懲役4年の実刑判決を言い渡された。

 上海の裁判所は、張氏が『口論を引き起こし、トラブルを招いた』として、公共秩序騒乱の罪で有罪と判断した。この罪状は活動家に対してよく使われる。

 張氏は5月に拘束された。現在まで数カ月間にわたってハンガーストライキを続けている。弁護士によると、張氏の健康状態は精神面も含め悪いという。判決が言い渡されると、『落ち込んだ様子を見せた』という(引用者注:当然であろう。この程度の情報発信で懲役4年だというのだ)。

 武漢市の状況を伝えて当局に問題とされた市民ジャーナリストは数人おり、張氏はその1人。中国には自由に発信できるメディアは存在しない。当局は活動家や告発者を、政府の感染対策を損なう存在だとして、弾圧することで知られている」(2020/12/29 BBCニュース)。

断章258

 中国共産党は、“今のところ”成功している全体主義政党である(「紅い」頭巾をかぶり「紅い」シャツを着ている)。成功に幻惑された日本の「左翼」学者たちは、「中国の特色ある社会主義思想」という全体主義の政治とイデオロギーを批判しないし、つまるところ同じ穴のムジナであるから批判できないのである。

 

 「香港メディアによると、民主派の前立法会(議会)議員ら少なくとも52人が6日、香港国家安全維持法(国安法)違反(国家政権転覆罪)の疑いで逮捕された。民主派は、昨年9月に予定されていた立法会選の立候補者を調整するため、同年7月に予備選を実施したが、今回逮捕されたのは予備選に出馬したメンバーらとみられている。昨年6月末の国安法の施行後、同法違反の容疑で逮捕されたのは約40人。今回だけでそれを上回る逮捕者となり、警察当局が国安法違反の取り締まりを本格化させた形だ」(2021/01/06 産経新聞)。

 

 「中国共産党は2021年7月、結党100年を迎える。新型コロナウイルスの猛威をほぼ抑えこみ、足元の経済は好調だ。しかし、世界から祝福の声は上がらない。習 近平総書記(国家主席)の下で、強権的な一党支配を強める中国は、国際社会との摩擦を覚悟のうえで『強国』路線を突き進む。

 昨年12月24~25日、党の最高指導部メンバーが執務室を構える中南海の『懐仁堂』は、張り詰めた空気に包まれていた。習氏が党のトップ25にあたる政治局員を全員集め、『民主生活会』を開いたのだ。生活上の悩みを民主的に話し合う会議ではない。参加者は自分の至らぬ点を反省するとともに、上司や同僚の欠点を批判する。もともとは建国の父、毛沢東が政敵をあぶり出すために始めたとされる。

 習氏は12年秋に最高指導者の地位に上り詰めてから、とりわけこの会議を重視してきた。今回のテーマは『習近平の新時代における中国の特色ある社会主義思想を真剣に学ぶ』。中国国営の中央テレビは政治局員がひとりずつ習氏に向かって報告する場面を映し出した。それぞれが習氏への忠誠を誓ったにちがいない。

 ちょうど同じタイミングで、独占禁止法を所管する国家市場監督管理総局が中国のネット通販最大手、アリババ集団の調査に入ったのは決して偶然でないだろう。

 アリババをめぐっては、傘下の金融会社アント・グループが20年の11月初旬に予定していた上海と香港での株式上場に、金融当局が待ったをかけたばかりだ。習指導部は『帝国』とも称される巨大企業グループのアリババを一気に追い詰めようとしている。

 きっかけは、アリババ創業者の馬雲氏が20年10月に『すぐれたイノベーションは監督を恐れない』と発言したことだったとされる。習氏が、自身と中国共産党への挑戦と受け止めたとしてもおかしくない。大きな力を持ちすぎたアリババと馬氏をこれ以上、野放しにしておく選択肢はなかったのだろう(引用者注:その馬は、中国共産党員だった)。

 20年1月に湖北省武漢で新型コロナの爆発的な感染拡大が始まり、習指導部はかつてない窮地に陥った。厳しい言論統制が対応の遅れを招き、共産党の一党支配そのものに批判の矛先が向いたからだ。(中略)

 日本経済研究センターが昨年12月にまとめた予測によると、中国は名目GDPで28年にも米国を超える。コロナ危機の前は、早くて36年以降とみていた米中逆転が大幅な前倒しとなる。中国から始まったコロナ危機が、逆に中国を強くするという皮肉な未来が現実味を増す。

 一党支配に自信を深めた習指導部は、一気に攻勢をかける。20年10月下旬に開いた党の第19期中央委員会第5回全体会議(5中全会)では『双循環』という名の新戦略を打ち出した。習指導部が描く中国経済の未来図だ。国内市場を主体とし、外需への依存を減らす。描き出すのは、中国が世界に頼るのでなく、むしろ世界が中国抜きでは立ちゆかなくなるグローバル経済の姿だ。

 その狙いは、5中全会の直後に党理論誌の『求是』に載った習氏のことばに凝縮されている。『国際的なサプライチェーン(供給網)のわが国に対する依存度を高め、供給を断とうとする外国への強力な反撃と威嚇の能力を形成しなければならない』。習氏は米国の大統領がトランプ氏からバイデン氏に代わっても、中国にデカップリング(分断)を仕掛けてくる可能性は排除できないとみているのだろう。

 実際、国際社会が中国に注ぐ視線は厳しさを増している。昨年6月末には香港国家安全維持法の制定を強行し、香港の高度な自治を保障する『一国二制度』を有名無実にした。〈中略〉我が道を行く習指導部は孤独を恐れず、国際社会との衝突はいまよりさらに激しくなっているように思えてならない」(2021/01/04 日本経済新聞)。

断章257

 ネズミ男やウサギ女たち。下級国民は、「背中の殻のなかに悲しみをいっぱい詰めたデンデン虫」(新美 南吉)である。心で涙しても人前では笑顔で、滑り落ちやすい山道を登っていく人生である(時折は、慈雨に安らぎ、そよ風になごみ、虹に癒されて)。

 黒や赤の全体主義ファシズムマルクス主義)は、小さなデンデン虫たちを容赦なく踏みつぶすイデオロギーであり独裁政治である。

 小さなデンデン虫たちを守る戦いのフロントラインに立つのは、誰か?

 ドラッカーは、「キリスト教全体主義と対峙できるのか?」と問いかけた。

 では、日本の自由主義はどうか? 彼らは、全体主義に対峙できるのか?

 日本の自由主義は、「ひ弱な花」である。価値判断や信条をめぐる「思想闘争」も、亢進すれば必ず「流血の闘争」になる。彼らは、その厳しさに耐えられないだろう。また、日本の自由主義者の多くは、マルクス主義に親和的で、日本共産党に融和的である。「赤い(紅い)」全体主義と対決できないだろう。

 

 以下は、『「経済人」の終わり』、第5章の引用・紹介。

 「社会の古い殻を維持しつつ、その中身として新しい社会の実体を見つけるという奇跡を行おうとするファシズム全体主義は、今日のところ、ヨーロッパの二つの国ドイツとイタリアに限られている。この二つの国において民主主義が崩壊した原因を見つけることこそ重要である。これまで行ってきたファシズムの原因についての分析の有効性もここにかかっている。

 旧秩序の崩壊によってファシズム全体主義が現れるとの見方に従うならば、民主主義が生き延びるためには自らの公約を果たすだけでなく大衆の心に訴える力を持たなければならない。

 西ヨーロッパ諸国はどれだけファシズム全体主義の毒に対して抵抗力をもつか、どこまでドイツとイタリアに追随するかとの問いに答えるには、この両国において民主主義がなぜ崩壊したかを分析しなければならない。(中略)

 ドイツとイタリアにおいて、民主主義の崩壊を招いた原因について答えるには、両国に共通していながら、他のヨーロッパ諸国には見られなかった社会的、政治的要因を見つけなければならない。そのような社会的、政治的要因は一つある。いや、一つしかない。

 両国では、ブルジョア秩序の信条や標語の中に国民感情に訴えるものがなかった。そこには、社会的な公約とその実現に対する関心しかなかった。民主主義そのものは、大衆の心にいかなる情緒的愛着も伴っていなかった。当然、その実体が無効であることが明らかになるや否や、それらの信条や標語は存在しないも同然となった。

 他方、イギリス、フランス、オランダ、スカンジナビア諸国においては、民主主義獲得のための闘いが大衆の心の中に生きる経験と伝統になっていた。民主主義の信条がそれ自体愛着を伴う価値として根づいていた。

 イタリアの民主主義は、大衆の愛着を欠いたために挫折した。ドイツで起こったことも、イタリアと軌を一にしていた。ドイツでも、民主主義の信条は国家目的の手段として使われていたにすぎなかった。(中略)

 ドイツとイタリアの状況を分析するならば、民主主義の崩壊を招いた原因そのものは、両国だけに存在していたわけではないことが明らかである。両国に特徴的だったことは、両国の民主主義の信条、制度、スローガンには、大衆の心情と知性のいずれにも訴えるだけの力がなかったということだけである。

 逆にいうと、西ヨーロッパ諸国におけるファシズム全体主義に対する抵抗は、大衆が民主主義に対して抱いている心理的、知的な愛着だけである。この大衆の愛着が、民主主義の実体が失われた後においてさえ、民主主義の形式に対しある種の実体を与える。しかも、大衆の愛着を伴う伝統の力は強力であり、かなりの長期にわたってその保持を可能とする。

 しかし、そのような伝統の力に基づく抵抗は、いかに強力であっても慣性的な力にすぎず、消極的な力にすぎない。西ヨーロッパ諸国もその伝統から生まれてくる抵抗力を失えば、ドイツやイタリアと同じ問題に直面することを意味する」。