断章549

 専制と「土地と自由」(ナロードニキ)の、殺るか殺られるかの対決はつづいた。

 もともとロシア帝国専制ロマノフ朝)の弾圧・拷問は酷(ひど)かった。

 「1866年には、被疑者に、一週間も睡眠を与えないという不眠の拷問が行われている。これは、肉体的な拷問が試行錯誤された後での、かなり洗練された拷問である。ピョートル・クロポトキンは自書で、『ロシアの政治は抑圧的であり、それは、暗く、寒く、豊饒な海から遠いという風土と、猜疑心、復讐心の強いロマノフ家の遺伝的特質に原因がある』と述べている。言論弾圧、言いがかりのような逮捕、拘禁、拷問、流刑、死刑は日常風景で、スパイは全階級に放たれている」(Wikipedia)というありさまだった。

 

 官憲の弾圧、多くのメンバーの検挙によって、慈善活動や宣伝活動に限界を感じたメンバーの多くは、テロ活動に傾斜していく。それに反対するゲオルグ・V・プレハーノフたちとの路線対立は、1879年の春に表面化する。サラトフから来たソロヴィヨフが、「土地と自由」に皇帝暗殺の援助を求めたときである。

 「はげしい討論ののち、組織として援助しないが、個々のメンバーが援助するのはかまわないという妥協におちついた。4月2日にソロヴィヨフは散歩中の皇帝に5発の銃弾をはなったが、どれもあたらなかった。ソロヴィヨフはその場で服毒したが果たせず、かれの追及から多数のメンバーが逮捕された。プレハーノフは、これ以上テロをつづけるかどうか大会で決着をつけようと提案した」(松田 道雄、前掲書を再構成)。路線対立は、「土地と自由」の分裂にいたる。

 

 テロ容認派は、「1879年8月、『土地と自由』(ゼムリャ・イ・ウォーリャ)のウォーリャをとって、『ナロードナヤ・ウォーリャ』(人民の意志)という名称の組織をつくった。ウォーリャには、自由と意志との両方の意味がある。・・・一方、プレハーノフたちは、『土地総割替』(チョールヌイ・ペレジェル)派を組織した。

 プレハーノフたち『土地総割替』派は、機関誌の秘密印刷所に対する手入れによってメンバーの多くを検挙され、また、『人民の意志』派によるテロがつづくかぎりこのまま運動はつづけられないとして、やがて亡命した」(同前)。

 

 「『人民の意志』派は、都市でのテロ活動を中心とする政治闘争を当面の戦術とし、組織による帝政打倒、政権奪取、普通選挙の実施、憲法制定議会、社会主義の樹立という革命路線を主張した。

 『人民の意志』派には、資本主義の発展が農村共同体の破壊を促進しており、革命をいまやらなければ、永久に共同体再生の道が失われるという切迫感があり、権力の頂点に打撃を加える方法として皇帝の暗殺が、早くから考えられていた。それが組織によって確認されたのは1879年8月26日であった」(世界大百科事典などを再構成)。

 「1879年11月、クリミアから帰還する皇帝を狙って、皇帝専用列車爆破を計画するが失敗。翌年には冬宮爆破事件をおこしたが皇帝殺害には失敗した。しかし、1881年3月1日、ソフィア・ペロフスカヤ指揮のもと、アレクサンドル2世の暗殺に成功した」(Wikipedia)。

 

 「後継のアレクサンドル3世は、『この悲しみのなかに、神は命じ給う。大胆に政府の舵をとれ。聖なる摂理を信ぜよ。専制権力の力と真理を信ぜよ。人民の幸福のために、あらゆる障害を排して専制権力を強固にすることがわれわれの使命である』と、声明した」(松田 道雄、前掲書)。

 政府は暗殺の主導者を逮捕して絞首刑にし、さらなる弾圧を加えた。「人民の意志」派は、衰弱し機能不全におちいり、さらに地下に潜った。

 その6年後の1887年3月1日、アレクサンドル・ウリヤノフ(ウラジーミル・レーニンの兄である!)らは、皇帝アレクサンドル3世の暗殺に失敗し、組織は壊滅した。

 

 革命(思想)は空から降ってはこない。

 ロムルスとレムスは、狼の乳を飲み、狼から狩りを学んで育ったという。まもなく歴史の舞台にあがってくるレーニンボリシェビキたちは、ナロードニキの何を受け継ぎ、ナロードニキから何を学んだのだろうか?

断章548

 「『人民のなかへ』の運動は失敗した。農民は立ちあがらなかった。学生たちはこの大実験から学ぶべく反省をはじめた」(松田 道雄)。

 たとえば、「チャイコフスキー団」の盛衰に、運動の経過を見てみよう。

 「1869年、マルク・ナタンソン、オリガ・ナタンソン、ニコライ・チャイコフスキーが、結成した『チャイコフスキー団』は、設立当初は読書会、書籍配布の為の組織であった。次いで、団員たちは農民や労働者の扮装で、農民のなかへ入って行く。

 中期には、啓蒙目的で、集団農場や工場が作られ、そこで貴族や富豪の子弟が、農民や労働者と一緒に汗を流した。ソフィア・ペトロフスカヤは貴族の娘でありながら、職人の妻という触れ込みで、木綿の頭巾に木綿の衣裳、男物の長靴を履いて参加した。川から桶に水を汲んで運びさえした。紡績工場でみじめに働く女工に混じり、一日16時間も働く女子大生もいた。セルデュコフという大学生は、砲兵工廠に潜り込み、そこで読書会を組織した。

 ・・・弾圧を受けると、秘密の連絡網を作り、逮捕された同志の脱走を計画して実行した。

 辻々に見張りを置き、官憲が追いかけてこられぬよう周辺の馬車をすべて借りきっての脱走計画が実行された。その人員、予算を思うに、貴族の子弟ではなく、すでに遺産を相続した貴族そのものが多く在籍した事をうかがわせる。

 後期になると、各地に支部を作り、連絡員を配し、支部ごとに活動を行うようになる。官憲に見つかると、その支部は廃して、メンバーはよその都市へ移動する。危険が大きい場合は、外国へ亡命する。この体制は、のちの革命組織に継承されている。1874年にメンバーの大部分が検挙されて、193人裁判にかけられ、チャイコフスキーアメリカに逃亡したため組織としては壊滅した(ただし、193人裁判は被告の虐待が問題となり、起訴されたメンバーの大部分は無罪となった)。チャイコフスキー団の主要メンバーは、後の(第二次)『土地と自由』、『人民の意志』と重なる」(Wikipediaから引用)。

 

 1876年の夏、「土地と自由」(第二次)の組織づくりが始まった。

 「1878年1月、ペテルブルクの知事トレポフ将軍による政治犯への虐待に対する報復から、ナロードニキのテロが始まった。

 2月にはキエフでオシレンスキーらが検事を狙撃して失敗。3月には同じキエフでポプコが憲兵副隊長を路上で刺殺。8月にはクラフチンスキーが秘密警察の長官を刺殺した。

 9月になってペテルブルクの組織が壊滅的な打撃を受けたのを立て直したアレクサンドル・ D ・ミハイロフは、組織の健在を示そうとして10月から機関誌を定期的に出し始めた。この機関誌名として1860年代と同じ『土地と自由』を採用したので、この組織も『土地と自由』(第二次)と呼ばれることになった。その第一号にクラフチンスキーの執筆による綱領が発表された。

 この綱領は、当時の革命的なロシアの青年の気持ちを実によくあらわしている。『人民のなかへ』の失敗から教訓をくみとろうとして模索しつつあるが、政府の激しい追及にテロを否定しつつテロをつづけ、混乱と逃亡のなかに、革命家と人民との関係や当面の革命の目標について十分に考えられないでいる困惑がみられる。(中略)

 『土地と自由』のメンバーは右往左往していたのだ。官憲の追及にたいする抵抗からテロにうつらねばならなかったグループ、農村のなかにじっくり腰をおちつけて啓蒙とセツルメント活動(注:ボランティアが居住し、日常生活をつうじて住民に働きかけ、その生活の改善を図る社会活動)をするグループ、都市労働者のなかに宣伝をするグループ。1870年代の終わりの頃、さまざまな模索がつづいた」(松田 道雄『世界の歴史22 ロシア革命』を再構成)。

断章547

 「革命のためには何でもやる(何でもあり)」というネチャーエフには、また後年会うことになろう。さしあたり、ネチャーエフ事件は、青年・学生のあいだに、秘密の陰謀的な活動に対する疑問、ためらいを生じさせた。

 「このときピョートル・L・ラブロフの『歴史書簡』は、啓示のように青年たちに革命の道を教えた。

 〈歴史は宿命ではない。その時代の最高の道徳の代表者としてのインテリゲンチャが、自由に選択して歴史をつくっていくのだ。その創造が進歩だ。しかし、インテリゲンチャは、自分を歴史の創造者だと思いあがってはいけない。インテリゲンチャが知識の特権者でありうるのは、多数の人民大衆が食うや食わずで労役に服していてくれるおかげである。インテリゲンチャは、その全存在を人民大衆に負うている。インテリゲンチャは、この負債を人民大衆に返すべき道徳的な義務をもっている。進歩の代償を支払うべきときが今きたのだ〉と告げた。

 『歴史書簡』は、ネチャーエフ事件のショックに意気消沈した青年たちには、救いであった。陰謀に失敗したからといって革命が絶望のわけではない。それが失敗したのはタクティック(注:特定の目標に達するためのプラン)だけがあってモラルがなかったからだ。インテリゲンチャはモラルによって人民大衆につながっているのだ。この人民大衆と一緒になれば、革命は陰謀でなく、公然と人民の力によって行いうるではないか。『歴史書簡』は、革命的な青年をネチャーエフの孤独から解放した。(中略)

 1873年の暮れから、ペテルブルク、モスクワ、キーエフ、オデッサ、サラトフ、サマラ、ハリコフの学生を中心にした青年たちが続々と農村に入っていった。農民にたいして社会主義の宣伝をしたり、革命の必要を説いたりした。この運動は翌1874年の夏に最高潮に達し、2万3千人の青年が参加した。参加者の三分の一ぐらいが女子学生であった。『狂った夏』がすぎて1874年の冬から青年たちの大検挙がはじまった。女性をふくめて700人以上が逮捕された。(中略)

 『人民のなかへ』の運動は1875年にはほとんど終息してしまったが、それは革命家の徒弟修行とでもいうべきものだった。(中略)

 『人民のなかへ』は、それに参加した青年にはえがたい教訓を与えたが、農民たちは青年からほとんど何も学ばなかった。農民たちは、まだまだ皇帝を信じていた。青年たちの宣伝を聞こうとしなかっただけでなく、警察に密告したり、ひっくくって突き出したりした」(松田 道雄『世界の歴史22 ロシア革命』を抜粋)。

 

【参考】

 ラブロフは、「プスコフ県の地主貴族の家柄に生まれ、ペテルブルクの砲術学校を卒業後、軍の学校で数学を教えた。しかし、チェルヌイシェフスキーの救援活動から当局に目をつけられ、1867年ボログダ県に流刑となった。この流刑中に『歴史書簡』を執筆した。そのなかで革命闘争におけるインテリゲンチャ(批判的に思考する個人)の必要性を説いて、ナロードニキの運動に大きな影響を与えた。1870年流刑地を逃亡してパリへ亡命し、第一インターナショナルに加盟するとともに、パリ・コミューンにも積極的に参加した。1871年コミューンによってロンドンに派遣され、そこでマルクスおよびエンゲルスと知り合う。ラブロフは、革命的プロレタリアートが社会変革の中心勢力である西ヨーロッパと違って、遅れたロシアではインテリゲンチャが農民に社会義思想を宣伝することによって、社会革命の準備をすべきであるとして、1873~1876年に雑誌『前進!(フペリョード)』を発行した。しかし、1880年代になると革命党の政治闘争=テロの重要性を認め、『人民の意志』党と提携して『人民の意志通報』の編集にあたった。1900年亡命先のパリで死去」(日本大百科全書・外川 継男)。

断章546

 『革命家の教理問答(カテキズム)』(バクーニン著作集・白水社刊から) ―― ここには“冷徹な憤怒”がある。

1.

革命家は死すべく運命づけられた人間である。彼には自分自身の利害もなければ、感情も愛着も財産もなく、名前すらない。彼のうちなるすべては、たった一つの特別な利害、唯一の思想、唯一の情熱 ―― すなわち革命によって占められている。

2.

彼はその存在の根底において、たんに言葉の上だけでなく事実の上で、あらゆる市民的秩序、すべての教養ある世界、すべての法律、礼儀、この世界の一般に承認されている約束事や道徳とのあらゆるきずなを断っている。彼にとってこの世界は容赦なき敵であり、もし彼がそのなかで生き続けるならば、それはこの世界をより確実に破壊せんがためにほかならない。

3.

革命家はすべての理論倒れを軽蔑する。そして平穏無事な学問を未来の世代にゆだねて、これを放棄する。彼が知っている学問はただ一つ、それは破壊の科学である。このために、ひたすらこのために、現在彼が学ぶのは機械工学、物理学、科学、あるいは医学である。このために彼は日夜人間の生きた学問を、性格を、現在の社会組織の状態を、すべての条件を、可能なかぎりあらゆる階層にわたって研究する。その目的はただ一つ ―― この醜悪な体制のできるかぎり速やかで確実な破壊である。

4.

彼は世論を無視する。彼は現在の社会道徳を、そのすべての動機と現象において軽蔑し、憎悪する。彼にとっては革命の勝利を促進するすべてが道徳的である。それを妨げるものは、すべて不道徳的で犯罪的である。

5.

革命家は死すべく運命づけられた人間である。国家およびあらゆる階級=教養社会に対して容赦ない彼は、またこれらの国家および社会からいかなる容赦も期待してはならない。かかる国家・社会と彼とのあいだには、秘密の、あるいは公然の、しかし絶え間なく、そして絶対に和解しがたい戦いが永遠に存する。彼はいつでも死を覚悟していなければならぬ。彼は拷問に耐えるべく自らを慣らさねばならぬ。

6.

自らに対してきびしい革命家は、他に対してもきびしくあらねばならぬ。肉親の情、友情、恋愛、感謝そして名誉といった、あらゆるかよわく柔弱なる感情は、革命の事業の唯一の冷たい感情によって、自らのなかに抑圧せねばならぬ。彼にとってただ一つの喜び、慰め、報い、満足は、革命の成功である。彼には日夜たった一つの思い、たった一つの目的がなければならぬ ―― 仮借なき破壊という目的が。この目的に向かって冷静に、たゆまず努力しつつ、彼は自分自身を、またこの目的達成を妨げるすべてのものを、自らの手で滅ぼすようつねに準備ができていなければならぬ。

7.

真の革命家の性質は、あらゆるロマンチシズム、すべてのセンチメンタリズム、有頂天、熱中を排除するものである。それは個人的な憎悪や復讐すら排除する。彼のなかにあっては、革命的情熱が日常茶飯のものとなり、冷静な計算と結びついていなければならぬ。たえず、どこにいても、彼は個人的な好みではなく、共通の革命的利害の命ずるところに従わねばならぬ。

8.

革命家にとっては、自分自身と同じように実際に革命の事業に決意を表明した人間だけが、友人となり、親しい人間となり得る。このような同志に対する友情や信服やその他の義務の度合いは、すべてを破壊する革命の授業における有効性の程度によってのみ決定される。

9.

革命家同士の団結については、いまさら言うまでもない。革命活動のすべての力は団結のなかにこそある。革命について理解と情熱を等しくする同志=革命家たちは、すべて重要なことは可能なかぎり一緒に検討し、全員一致でことを決すべきである。このようにして決まった計画の実行にあたっては、できるだけ各人が自分だけをあてにすべきである。一連の破壊的行動を遂行する際には、各人が一人で行うべきであって、どうしても成功がおぼつかない時にのみ、同志の助言や援助を求めるべきである。

10.

一人一人の同志の手許には、数人の第二、第三級の革命家がいるべきである。これらの革命家は完全には革命に身をゆだねていない人たちである。革命家はこれらの人々を自分の管理下にある共通の革命的資本の一部とみなすべきである。彼は自らの資本の分け前を、つねにそこから最大の利益を引き出すことができるよう、経済的に使わなければならぬ。自分自身に対しては、革命の事業の勝利のために消費さるべき運命にある資本と考えるべきである。自らもその一部であるかかる資本の使用は、完全に革命に身をゆだねた全同志の賛成なしには行うことができない。

11.

 同志が窮地に陥り、これを助けるべきか否かが問題になった際には、革命家たる者はけっして個人的感情によらず、もっぱら革命の事業の有益性にもとづいて考慮すべきである。かかるがゆえに、一方では同志のもたらす利益と、他方では彼を救うために必要とされる革命勢力の損失とを考慮しつつ、いずれの側が勝るか決定すべきである。

12.

言葉の上でなく、行動の上で同志に加わらんとする新しいメンバーの採用は、全員一致でこれを決めるべきである。

13.

革命家が国家や身分社会や、いわゆる教養ある社会に進出し、そのなかで生活するのは、もっぱらその完全にして速やかな破壊を信ずるがゆえにほかならぬ。もし彼にとってこの世界になにか惜しむべきものがあれば、その者は革命家ではない。また彼がこの世界に属するなんらかの事態や関係や人間の抹殺を前にして立ちどまるならば、この世界のあらゆるものが彼にとってひとしく嫌悪すべきものとなるに違いない。もし彼がこの世界に、肉親、友人、恋愛といった関係を持つときは、もっと悪くなる。そしてそのような関係が彼の腕をおさえるようなことがあるなら、彼は革命家ではなくなる。

14.

仮借なき破壊の目的のために、革命家は社会のなかで偽りを装って生活することもあれば、しばしばそうしなければならないことさえある。革命家はあらゆるところへ、すべての階層のなかに入り込まなければならぬ。上層へ、中流階級へ、商店へ、教会へ、地主貴族の邸へ、官界へ、軍隊へ、文学界へ、第三部へ、そして冬宮へすら侵入するのである。

15.

すべてこの醜悪なる社会は、いくつかのカテゴリーに分類さるべきである。第一のカテゴリーは、猶予せずに死刑を宣告される。結社は革命の事業の成功にとって、有害性の順に従って、これら死刑を宣せられた者のリストを作製すべきである。これによってリストの先に出てくる者から片付けるのである。

16.

かかるリストを作製し、前述の順序を決定する際には、けっしてその人間の個人的悪業や、結社や人民のなかに彼がもたらした憎しみによって決めてはならない。このような悪業や憎悪は、人民の反乱を惹起し得るがゆえに、部分的にも一時的にも有益なものですらあり得る。彼の死が革命の事業にもたらす有効性の度合いによって考えられなければならぬ。したがって、革命組織にとって特に有害であったり、その人間の突然の横死が政府にこの上ない恐怖をもたらしたり、政府がその賢明で精力的な活動家を失うことによって、力が削がれるといった人間から、まずもって葬られるべきである。

17.

第二のカテゴリーは、一時的に生かしておく人々である。彼らの残忍な行為が人民に不可避的に反乱を引き起こすようにするためである。

18.

第三のカテゴリーには、特に知的にも精力的にも目立つところはないが、彼らの富や交友関係や影響力や力が立場上利用できるような、多くの高位の畜生どもや人物たちが含まれる。これらの人間はあらゆる手段・方策を用いて利用すべきである。巻き添えにしたり、迷わしたり、なるべく彼らの汚い秘密をつかんで自分たちの奴隷にしたりするのである。このようにすることによって、彼らの権力や影響力や交友関係や富や力が、さまざまな革命的企てにとって無尽蔵の宝庫とも強力な援助ともなるであろう。

19.

第四のカテゴリーに入るのは、いろいろな相違をもった野心家の官吏や自由主義者たちである。彼らに対しては、その計画に従って、あとを追うように見せかけながら、彼らのあらゆる秘密を握って縛りつけ、もとの地位に復帰することができないほど体面を傷つけることによって、彼ら自身の手で国家を混乱させるような陰謀をはかることができる。

20.

第五のカテゴリーは、グループ内で陽気におしゃべりをしたり、書物の上だけの空論家、陰謀家、革命家である。彼らに対しては、たえず前の方に押しやり、引っぱって、実際に困難な言明をさせるようにしむけるべきである。こうすることによって大部分の者は跡形もなく消え失せ、少数の真に革命的な資質が残るであろう。

21.

第六の重要なカテゴリーは女性である。女性は大きく三つの種類に分けられるべきである。その一は、中味も思想もない、魂の抜けた者たちであって、これは男性の第三、第四カテゴリーと同じように利用することができる。そのニは、熱烈で献身的ではあるが、いまだ真の文句なき事実上の革命的理解には到達していないがゆえに、われわれの仲間にはあらざる女性である。これらの女性は第五のカテゴリーの男性と同様に扱うべきである。最後は完全にわれわれの仲間の女性たちである。ということは、まったく献身的で、われわれの綱領を全面的に受け容れた人たちである。彼女たちはわれわれの同志である。われわれは彼女らをこの上なく貴い宝とみなさなければならない。彼女らの援助なしにやってゆくことは不可能である。

22.

結社にとっては人民、すなわち肉体労働者の完全な解放と幸福以外に目的はない。しかし、かかる解放と幸福の実現のためにはすべてを破壊する人民革命以外に道はないことを確信するがゆえに、結社はすべての力と手段を尽くして、ついには人民をして忍耐の極、一人残らず蜂起に立ち上がらせるような諸悪を発達させ、これを断ち切るべくつとめるであろう。

23.

人民革命という語を、結社は西ヨーロッパの古典的なやり方による立法運動の意味には用いない。このような運動は、いわゆる文明とか道徳とかいった社会秩序の伝統や所有権の前でつねに立ちどまり、今日までのところ、どこにおいても一つの政治形態を他の政治形態によって転覆させて置き換えるにとどまり、世に言うところの革命的国家を創設せんとしてきた。人民にとって有益な革命とは、あらゆる国家制度を根底から絶滅し、ロシアにおけるすべての国家的伝統や秩序や階級を根絶するもののみである。

24.

かかるがゆえに結社は、人民に対してはいかなる組織も上からむりに押しつけんとする意図は持たぬ。将来の組織は、疑いもなく人民の運動と生活から育てあげられるものである。しかしこれらは未来の世代の仕事である。われわれの仕事は、激烈な、完全な、あらゆるところでの容赦なき破壊である。

25.

したがって、人民に接近しつつ、われわれは、モスクワ国家の設立以来、言葉の上でなく事実の上で、直接・間接に国家と結びつくすべてのものに、貴族に、官吏に、僧侶に、ギルド社会に、富農=高利貸しに抵抗し続けてきた人民の生活の諸要素と、まずもって結合しなければならない。ロシアにおいて、真の、唯一の革命家である大胆な強盗の社会と結びつこうではないか。

26.

この世界をただ一つの向かうに敵なき、すべてを破壊する力に結合すること、これこそわれわれの組織であり、陰謀であり、任務なのである。

断章545

 「1869年の12月26日、モスクワの農業大学のなかの池の氷の下に大学生の死体が発見された。頭部の銃創で他殺であることが明らかだった。ただちに捜索が始まった。学生がイワーノフということがわかって、その周囲の人物が多数検挙されて事件の全貌がわかった。

 『ヨーロッパ革命家同盟』からロシア支部をつくるために派遣されたネチャーエフという男が、その支部に『人民の裁き』という名をつけて、モスクワやベテルブルクの学生のあいだに秘密サークルを作っている。このサークルは5人組が単位で、他のサークルのことはいっさいわからない。サークルのメンバーもお互いを番号で呼び合うだけで名を知らない。

 1870年2月19日にロシアに革命がおこることに決まっていて、サークルのメンバーはそのために活動をしているということが判明した。殺されたイワーノフはこの秘密組織を密告しそうだというので消されたのだった。ネチャーエフは、死体が発見される前に、スイスに脱出していた。(中略)

 1871年の7月1日から9月1日まで行われた『ネチャーエフ事件』裁判は主犯逃亡中のまま、法廷に被告79人がひきだされた。ことごとくが20代あるいはそれ以下の青年だった。彼らは非合法のサークルに所属したことだけで起訴されたのだ。カネを集めるとか、集会の部屋を貸すとか、一緒に本を読んだとかいうことが起訴理由だった。しかし、彼らは勇敢に専制とたたかう決意を法廷で述べた。革命が近いことを信じると叫んだ。

 だが、政府は、『君たちの組織を作ったネチャーエフは残忍な殺人犯人だ、彼は君たちを利用しているだけなのだ』と言って、その証拠に被告たちの知らない秘密の文書『革命家の教理問答(カテキズム)』を発表した。

 ・・・被告たちは愕然(がくぜん)とした。自分たちは利用されただけにすぎないと思うと、ネチャーエフのあの脅迫的な態度と冷酷さが、あらためて思い出された。ネチャーエフが5人組をたくさん作るために、トリックや脅しを使ったことが、この場合かえって被告たちを彼から引き離す結果になった。政府はこの裁判に限って公開し、その記録を新聞記者に配った。ロシアだけでなくヨーロッパの新聞まで、これをスキャンダルとして広めた。

 その後、ロシアの亡命者のあいだで孤立したネチャーエフは、スイスで逮捕された。1871年10月にロシアにひきわたされ、皇帝の命令によりペテロパブロ要塞に生ある限り監禁されることになった」(松田 道雄『世界の歴史22 ロシア革命』を再構成)。

 

 「セルゲイ・ネチャーエフ(1847年~1882年)は、貧しい家庭(父は貧しい労働者、母は解放農奴の娘。6歳で母を失う)に生まれた。独学で教師資格を得て教区立学校で教えはじめた。かたわらペテルブルク大学の聴講生となって、1868~69年の大学紛争に加わり、学生運動革命化を図ってピョートル・トカチョフ(1844年~1885年)たちと共に学内少数派だった急進派に属した。その後、スイスに脱出し、老革命家・バクーニンに近づき、バクーニンと共に革命を訴えるいくつかの宣伝文書を作成した。

 その中で一番著名なものが、1869年夏に著した『革命家の教理問答(カテキズム)』である。・・・その主張は、革命という『目的は手段を正当化する』という原理で貫かれ、後に『革命のマキャベリズム』、『革命のイエズス主義』と称された」(Wikipedia日本大百科全書などを再構成)。

 

【参考】

 「イエズス会は、16世紀の宗教改革の時代に、フランス・モンマントルの礼拝堂で、イグナティウス・デ・ロヨラとその学友によって『エルサレムへの巡礼』や『清貧と貞節』等の誓いが立てられたのが、その始まりである。イエズス会は『神の軍隊』、イエズス会員は『教皇の精鋭部隊』とも呼ばれ、軍隊的な規律で知られる」(Wikipedia)。

断章544

 1860年代、ロシア帝国は領土拡張を続けていた。また支配下にあったポーランドリトアニア白ロシアでの反乱を制圧した。

 「専制国家は他の国民に対しても専制的だ。国民が専制主をチェックできないからだ。それどころか、国民は自分が抑圧されていることを、他国民の抑圧によってうさばらしできるので、非道を非道と思わない。ロシア国民はクリミア戦争の敗北による屈辱感を、領土拡大によってみずからなぐさめた」(松田 道雄『世界の歴史22 ロシア革命』)。

 1864年には、ロシア最初の株式会社組織による銀行が創立された。国民学校令が制定され、学制改革も行われた。こうした改革に見られるように、国内経済は当時、かなり目覚ましく発展した。

 とはいえ、専制政治はそのままに存続し、大地主が依然として支配的地位を占めた農村は、根深い社会的矛盾の基盤として残り、さらに初期資本主義経済段階への突入による矛盾の激化が見られた。

 

 ペテルブルクの大学を出たピーサレフは、1862年7月に逮捕されて、ペトロパヴロ要塞に4年半収監された。彼は、「人民と政府とのあいだに和解はありえない。政府の側には人民からだましとった金で買収した悪漢しかいないのに、人民の側には思考し、行動しうるわかい世代がいる」(同前)と言った。

 1863年には、モスクワ大学出のイシューチンを中心にした「オルガニザーチア」というグループが活動を始めた。「いっさいは革命のために捧げられねばならぬと信じた青年が彼の周囲に集まった。あるものは大学を途中でやめたし、あるものは財産のすべてを寄付した。食うものも食わず、寝るときには板の間に寝た。彼らは一種の共産村をつくっていた。5年後に革命がきっとおこると思っていた。その革命のためにどのような犠牲も払わねばならぬと信じたイシューチンは、一種のマキャベリアンであった。

 組織の中にもうひとつ『地獄』という組織を作って、これが皇帝暗殺を計画した。権力の代表者の暗殺は、権力が十分に組織されていて、人民が権力を信用し、権力とたたかう組織が絶望的に分散されているときにおこる思想である。(中略)

 『地獄』のメンバーのなかでクジを引いて、当たった誰かが、まったく単独の行動として暗殺をする。もし失敗したら、またクジを引くというのが計画だった。『地獄』に権威をもたせるために、それはヨーロッパ革命委員会のロシア支部であるとイシューチンは言っていた。

 ドミトリ・V・カラコーゾフは、貧窮のなかでの活動で身体をこわし、一時は自殺を考えたが、人民にたいして何の役にもたたずに死ぬのを恥じて、すすんで皇帝暗殺をかってでた。1866年4月、アレクサンドル2世の暗殺を試みたが失敗した。・・・ただちに検挙がはじまって、数百人が捕らえられた。・・・この事件で地下運動の取り締まりはいっそうきびしくなった」(松田 道雄『世界の歴史22 ロシア革命』を再構成)。

断章543

 ロシアの危機を何によって解決すべきか? 政府が解決できないとすれば、どうすればいいのか?

 革命(思想)は、空から降ってはこない。

 ある時代の、ある土地の、歴史と社会のなかで生まれ成長し腐朽する。あるいは、別の時代の、別の土地のものが、伝播し模倣され変容する。

 

 「1860年のはじめに、(亡命先の)ロンドンのゲルツェンのところに若い男がやってきた。25歳のこの男は、ニコライ・ A ・セルノ=ソロヴィエーヴィッチといってペテルブルクの官吏の子であった。早くからプルードン、サン・シモンなどのフランス社会主義を学び、ゲルツェンの愛読者であった。クリミア戦争の敗北に大きなショックをうけた彼は、官吏となって上からの改革に大きな期待をかけていた。しかし、皇帝への直接のアピールも受けいれられず、官僚制度の内面の腐敗にも絶望した。社会主義以外にロシアの救いはありえないと確信するにいたった。チェルヌイシェフスキーの経済学に深く動かされて経済学を学ぶため1858年に辞職してヨーロッパに行った。農村共同体を基礎にして、国家の経済援助でロシア特有の体制をつくるというのが彼の意見であった。

 ゲルツェンとオガリョフは、この俊英な経済学者に多くの期待をよせ、ロシアのなかに革命組織を作る相談をはじめた。これが、秘密の革命組織(第一次)『土地と自由』である ―― オガリョフが作成した党規約では、所属細胞の5人以外の顔を知らぬというイタリアのアナーキストのマッチニの組織論を採用した。(中略)

 政府のスパイ網はゲルツェンの周囲にもはられていて、多数の手紙をもった連絡員がロンドンを出発したという知らせを(ロシア本国に)打電してきた。1862年7月、この連絡員の逮捕によって32人が検挙されて、(第一次)『土地と自由』の中枢部は潰滅した」(松田 道雄『世界の歴史22 ロシア革命』)。

 

 あるいは、

 1861年9月のある日、ロシアの青年・学生は、「わかい世代へ」と題する宣言を受けとった。

 「君たち、人民の指導者よという呼びかけで、ビラは、君主制の廃止をうったえている。

 〈われわれを苦しめ、知的にも、市民的にも経済的にも発展することを妨げている権力は、もはや必要がない。1848年がヨーロッパで失敗だったことは、わが国でそれが不可能だということではない。経済や土地関係がヨーロッパとロシアではちがう。ヨーロッパには農村共同体がない。われわれはおくれているが、それがわれわれの救いだ。ヨーロッパの不幸はわれわれの教訓だ。われわれには新鮮な力がある。この力で新しい歴史をつくっていけばいいので、ヨーロッパのまねをすることはない。信じなければ救われない。われわれはわれわれの力を深く信じる。われわれの欲するのは、合理的な権力、言論の自由、検閲の廃止、人権の尊重、働く者の土地所有権だ。われわれは町人、ブルジョワがなくなってほしい。ロシアの希望は、あらゆる層の若い世代からなる人民の党だ。すぐ行動にうつろう。一分も失ってはならぬ。〉

 ここに語られている革命の宣言は、打倒すべき目標をあきらかにし、革命の党の必要をうたっている点で、画期的なものである。指導はインテリゲンチャがしなければならぬが、党と人民との関係、革命後の革命権力の形態についてはまだふれていない。しかし、ヨーロッパのあとを追う必要がないことは、はっきりと宣言されている。しかも革命はいそがねばならない。農奴解放の年にだされたこの革命の宣言は、それ以後の革命の綱領のキイノートになる」(同前)。

 

 あるいはまた、

 「ピョートル・G・ザイチュネーフスキーは、モスクワ大学の数学科に在学中、学生運動に参加して革命家としてのスタートをきった。

 ・・・のちに禁止図書の秘密出版をしているサークルに加入し、文盲をなくする運動としての私設日曜学校で社会主義宣伝にたずさわった。それが警察長官ドルゴルーコフの命令で禁止されると、彼は農村に行った。・・・彼は農民を至近距離で見た。・・・革命は思想だけの問題ではない。革命は組織せねばならぬ。農民にその力がなかったなら、教育を受けた人間がやるしかない。

 日曜学校で不穏当な宣伝をしたかどで、彼は逮捕された。だが、モスクワの監獄はいたってルーズで、そのなかで彼に『若いロシア』を書かせ、外に持ち出させて、印刷させてしまった。1862年の5月ごろから、このパンフレットは、疑いをそらすためペテルブルクでばらまかれ、急速に地方に広がった。

 『若いロシア』は、革命の党の宣言である。それは今まで出された秘密組織の宣言の中で一番激しい調子のものだった。

 〈ロシアはその存在の革命期に突入した〉という書き出しで、いま闘争が行われているのは、ふたつの党のあいだであることを明らかにする。ふたつの党とは何か。ひとつは虐げられた者の党、人民である。他は皇帝の党である。自由主義者憲法を要求したりしているが、じつは皇帝と所有につながっている。人民の革命運動が所有に向けられているのを知ると、人民の蜂起に自分の代表者ツァーリを押し出してくる。これが皇帝の党である。

 ゲルツェンは尊敬すべき文筆家だが、1848年の革命の失敗に驚いて力による変革を信じなくなってしまった。われわれは現体制を倒すためには、 1790年代のジャコバンが流した血を恐れない。いまの専制は諸州の共和的連合に変わらねばならぬ。そのさい、すべての権力は国民会議と州会議の手にぞくさねばならぬ。

 『若いロシア』のもっとも特徴的なところは、権力獲得後の政府の性質を決めているところにある。

 〈政府の先頭に立つ革命党は、革命の成功したあかつきは、現在の政治的中央集権制(行政的中央集権制でない)を確保せねばならぬ。それによって経済的、社会的生活の基礎をできるだけすみやかにつくるためにである。独裁権力を保持して何ものにもたじろいてはならぬ。総選挙も政府の影響下におこなって現体制の護持者を入れてはならぬ。〉

 ・・・権力掌握後の革命党の独裁の思想が20歳の青年によって、ロシアの革命家に手渡されたのである。『若いロシア』は党として成長しなかったが、ロシア・ジャコバンの思想は成長を続ける。ザイチュネーフスキーの仲間のサークルには、やがてこの理論を大成する若いトカチョフがいた。ザイチュネーフスキーが逮捕と流刑を繰り返しながら自分の周囲に育てたサークルのなかから、テロリストも出たが、ボリシェビキになる人間も育った」(同前)。