断章253

 H・ノエル・ブレイズフォードは、P・ドラッカー『「経済人」の終わり』1939年初版への「序文」を書いた。

 「本書は、何についての本であるか。主としてそれは、ファシズム全体主義とは何かを知らしめるものである。(中略)

 ルターとカルヴァンの勝因は、16世紀の教会が、すでに信仰において破綻していたことにあった。同じくヒトラームッソリーニの勝因は、ヨーロッパのあらゆる勢力がすでにその信条において破綻していたことにあった。(中略)

 ブルジョワ資本主義は、1929年に始まった大恐慌時に、景気回復を求めて、その信条を捨て経済活動の自由を諦めたとき破綻した。・・・。ソ連もまた、信条を捨て無原則の便宜主義に陥ったとき破綻した」。

 

 旧・ソ連の崩壊後、明らかになったことは、「無原則の便宜主義」と呼ぶだけでは済まされない深刻なものだった。

 「スターリン主義体制の性格をもっともあからさまに示すものは、ナチとの合意にもとづいて、ドイツの反ファシスト活動家をナチに引き渡すという、途方もなく犯罪的なことを彼らが平然と行ったことにあろう。すでに1937年に、ソ連指導部はドイツの反ファシストヒトラーに引き渡すことを決定し、同年2月には10人がその対象になったが、1937年5月ナチ・ドイツのソ連大使シューレンブルクは引き渡しを要求するドイツ人の2つの新しいリストをソ連側に手交し、その結果37年には148人、38年には454人がポーランドリトアニアフィンランドとの国境でゲシュタポに引き渡された。これはスペイン内乱とフランス人民戦線が世界の耳目を集め、反ファシズムの機運が世界的に高揚しつつあった時期である。

 1939年8月の独ソ不可侵条約と9月のポーランド分割ののちには、この引き渡しは、直接ゲシュタポ(引用者注:ドイツ秘密警察)とNKVD(引用者注:ソ連スターリン政権下で刑事警察、秘密警察、国境警察、諜報機関を統括していた人民委員部)の間で行われた。1939年11月からヒトラーの対ソ電撃戦が始まる前月の1941年5月までの間に、350人(うち85人はオーストリア人)が引き渡されたが、そのひとりはオーストリア共産党の創設者のひとりであるフランツ・コリチョナー(かのヒルファーディングの甥)であり、彼はウィーンに移送されたのち、拷問され、1941年6月7日にアウシュヴィッツで処刑された」(『共産主義黒書』から省略・引用)。