断章528

 「1864年当時、ロンドンでは活発な政治運動が展開されていた。フランスの労働者たちはこうした運動に招待を受け、ブリテンとフランスの代表者間で国際組織を実現させる具体的な道筋が定まっていく。1864年9月、ロンドンでフランスの労働者代表団を迎えて歓迎集会が催され、第一インターナショナル(国際労働者協会・IWA)の設立が宣言された。

 ブリテン側の世話人は製靴工のジョージ・オッジャーと大工のランダル・クリーマー、フランス代表は青銅細工職人のアンリ・トラン、議長はロンドン大学教授のエドワード・ビーズリだった。

 この集会にはマルクスも同席しており、ヨーロッパ各国の急進派が一堂に会する大規模なものとなった。ビーズリは、……地球上における正義と公正の実現のために世界の労働者の団結を呼びかけた。発足集会の決議に基づきロンドンに本部を設置することが定められ、『中央評議会』と年次大会を主軸とした第一インターナショナルの組織が示されたほか、マルクスが起草した『第一インターナショナル創立宣言』と『規約』が満場一致で採択された。

 IWAの組織は短期間で整備されたが、社会主義的、半社会主義的な諸派が混在していた。

 マルクス1871年アメリカ人会員のフリードリヒ・ボルテに宛てた手紙において、『インターナショナルが作られたのは、社会主義的、半社会主義的な宗派を労働者階級の本当の闘争組織でおきかえるためであった。これは最初の規約や創立宣言をみれば一目でわかる。……インターナショナルの歴史は、労働者階級の本当の運動に逆らって自分の地位を保とうとつとめた宗派やアマチュア実験に対する、総評議会のたえまない闘争であった』と語っている。マルクスは『社会主義』内部の雑多な勢力を整理していく算段であった。

 IWAは、ロンドンでの発足集会にはじまり、ジュネーブ大会(1866年)、、ローザンヌ大会(1867年)、ブリュッセル大会(1868年)、バーゼル大会(1869年)、ハーグ大会(1872年)が開催された。しかし、1872年以降、内部の雑多な勢力間の意思統一はより困難になり、1876年に解散した」(Wikipediaを再構成)。

 

 1883年のマルクス死後ほどなく、イギリスに次ぎ、ドイツ・フランス・アメリカなどの“資本主義”発展と工場労働者の増大につれて、マルクス主義は、“社会主義”内部の主流になった。そして、「ここ10年のあいだに、国際的な社会主義文献の数がどえらくふえ、とくにマルクスとわたしの旧著の翻訳が数多くでるようになった」(エンゲルス)。

 「20ヵ国語で咳(せき)をする」といわれたほど語学の達人だったエンゲルスには、盟友・マルクスが残した遺稿の整理に没頭できないほど、翻訳の手助けや訳文の訂正などさまざまな要望が諸国の団体・出版社から寄せられた。

 そうした動きを受け、1889年、欧米20ヵ国、400名余の代表によって、第二インターナショナル(国際社会主義者大会)が開催された。「第二インターナショナルは各国の社会主義政党の連帯組織という性格が強く、その中心はドイツ社会民主党であった」(『世界史の窓』)。

 「1893年チューリヒ大会では主流派社会主義者マルクス主義者)の方針が勝利し、直接行動ではなく議会への進出による諸条件改善に重きが置かれた。また、エンゲルスが名誉会長に選出された。……1900年のパリ大会では、・加盟党派すべてが従う戦術問題を討議し、方針を決定する権限を得た。・インターナショナル事務局の設置という成果があった。1904年のアムステルダム大会では、日露戦争で交戦中だったロシアと日本の代表(プレハーノフ、片山 潜)が大会冒頭で握手を交わし、国際的結束をアピールした」(Wikipediaを再構成)。

 

 なにごともすべてはドイツ社会民主党の理論家たちから流れ出るか、そこから引用されたが、そこでは、マルクス(の理論)は、「教理問答に定式化されたり、教条主義的なものにされた。それは干からびた経済決定主義や陳腐な唯物(ただもの)的機械論」(ミシェル・ボー)になった。看板は同じものだったが、中身は別物に変わりつつあったのである。