断章529

 1914年、第一次世界大戦が勃発した。第一次世界大戦では、「7,000万人以上の軍人が動員され、史上最大の戦争の一つとなった。参戦国や戦争に巻き込まれた地域は、2018年時点の国家に当てはめると、約50カ国に達した。軍事的には参戦国が人員や経済力、工業技術を大規模に動員する国家総力戦であった。航空機や毒ガス、潜水艦、戦車といった新兵器が史上初めて大規模に使われた」(Wikipediaを再構成、以下同じ)。

 「1871年ドイツ統一が成し遂げられ、ドイツ帝国が成立すると、ドイツの政治と経済力が大きく成長した。1890年代中期以降、ヴィルヘルム2世率いるドイツ政府はそれを基盤として莫大な資源を投入、海軍の優越をめぐってイギリス海軍と競争した。英独間の軍備拡張競争は全ヨーロッパを巻き込み、列強すべてが自国の工業基盤を軍備拡張に投入し、汎ヨーロッパ戦争に必要な装備と武器を準備した。1908年から1913年まで、ヨーロッパ列強の軍事支出は50%上昇した」。

 「19世紀の間、ヨーロッパ列強は勢力均衡を維持しようとしてさまざまな手を使い、複雑な政治と軍事同盟網を築き上げていた。そのため戦火の火ぶたが切られるや、戦争は世界大戦になった」。

 「戦争の引き金となったのは1914年6月28日、ユーゴスラビア民族主義者の青年ガブリロ・プリンツィプが、サラエボの視察の視察に訪れていたオーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻を暗殺した事件だった」。

 

 「第一次世界大戦を理解するためのアプローチの一つは、人口動態、すなわち人口増加が、農村部の伝統的生活様式に内在する人口受容能力の限界に達したことへの対応であった、と理解することができる。……いつの時代でも、またどの地域でも、ある世代の農民の子供たちが成年に達し、結婚して大人としての役割を果たすべき時がきたのに、かれらの住む村ではもはや、十分な面積の土地を手に入れることができず、そのためにずっと昔から彼らの父祖が暮らしてきたような暮らしかたができなくなってしまったならば、かならずやあらゆる既存の社会関係の根本をゆるがす混乱が生じるものである。

 こういう状況下で、伝統的な農村部の生活様式は耐えがたい緊張にさらされた。家族内での義務や、村の習慣による道徳的責務が、まったく果たしえなくなってしまったからである。こうなると残った問題は、さまざまな革命思想がある中で、どれに、挫折感を抱いた若年層がひきつけられるかだけであった。

 18世紀半ばからこの方、ヨーロッパでも全世界でも、人口動態はそれまでの均衡的経路から脱線してしまった。死亡率が下がったために、前世紀、前々世紀に比べてずっと多くの子供たちが大人になるまで生きのびたのに、出生率はそれにあわせて自動的には下がらなかった。それどころかむしろ傾向としては上昇した。なぜなら致死的な流行病が減った結果、夫婦がそろって子供ができる年齢いっぱい生きのびる確率が増したからである。

 18世紀にこの人口増加が始まってから一世紀以上にわたって、中・東欧においては、人口の増加はすなわち富の増加を意味した。なぜなら労働力が増えれば、それだけ土地の耕し方が改善され、新しい土地が耕作され、さまざまな面で農業生産の集約度があがったからである。だが、こういう状況はいつまでもは続かず、1880年代には、ヨーロッパのうち、ライン川とドン川の間に存在するあらゆる村々で、投入に対する収穫の逓減がにわかに実感されるようになった。

 このことは二つの変化となって表れた。第一に、1880~1914年の時期に、移民による人口流出がひじょうな規模に達し、何百万人もが大西洋を越えてアメリカに渡り、さらに何百万人もが東方のシベリアへ移住したこと。第二に、ほぼ同じ時期の中・東欧においては、都市民だけでなく農村居住者も、さまざまな革命思想のかたちをとった不満感をいだきはじめたことである。

 村落の習慣と伝統的社会パターンにかかってきた圧力は、1914年まで強度を増しつづけた。第一次世界大戦が始まると、その社会的緊張には新しいはけ口があたえられ、さらに中・東欧で何百万もの人々が死んだことで、農村部の過剰人口それ自体がいくらか軽減された。(中略)

 第一次世界大戦前夜のヨーロッパの諸強国の態度と行動は、これら諸国がそれぞれそれまでどのように人口増加に対処しえていたかによって、かなりの程度まで説明がつくのである。……フランスとイギリスは、1780年1850年の時期に両国の農村人口の急速な増加がもたらした国内的な緊張を、それぞれ対照的な仕方ではあるが19世紀半ばまでにはほぼ解消していた。 1850年代に始まりそれ以降も続いた実質賃金の上昇は、この事実を反映している。(中略)

 19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパで最も深刻な人口問題にみまわれたのは、西のイギリス、フランスと東のロシアの中間に位置する諸地域であった。(中略)

 ヨーロッパのうち、ドイツの東と南に隣接する諸地域では、産業の拡大はまったく人口増加に追いついていなかった。……ハプスブルク帝国と、旧オスマン帝国の領域内の諸地域こそは、政治問題が最も激しい痛みを引き起こした諸地域でもあった(ロシアのポーランド系諸州もまたこの範疇に属する)。海外移民も大勢が出ていったが、この問題を軽減するには十分でなかった。

 ホワイトカラーの勤め口につこうとして中等教育を終了した若者たちは、村々で欲求不満に苦しむ同世代の若い衆に革命的政治理想を伝達するためにまさに格好の戦略的位置にいた。かれらは早くも1870年代にブルガリアセルビアで、そしてやや遅れて東ヨーロッパのすべての地域でめざましい成功をおさめた。

 この結果、バルカン諸地域は、ヨーロッパの火薬庫となった。この火薬庫に火種を投げこみ、第一次世界大戦という大爆発をひきおこす役を演じるには、セルビア人青年ガブリロ・プリンツィプはまさにうってつけの役者であった。苦労して中等教育を終えたのに、その中等教育は、社会で成人としての役割を演じるに足る生活の糧を与えてくれず、そのかわりにかれに強烈な革命的ナショナリズムを吹きこんだのである」(W・H・マクニール『戦争の世界史』から抜粋)。