断章541

 ロシア帝国ロマノフ王朝)は、専制的な統治を続けていた。「ニコライ1世(1825年~1855年)は、“デカブリストの乱”後の不穏な社会情勢を『腐敗、不正常』とみなした。有害な思想を取り締まることを目的として検閲法を発布。さらに、皇帝官房第三部という秘密警察を設置した。この秘密警察は、ロシア帝国全土にわたり国民を監視・抑圧していったため、時と共にその悪名は高まり、『ヨーロッパの憲兵』を以って任ずるニコライ1世の反動政治の代名詞ともなっていった。・・・ニコライ1世の抑圧的な態度は専制の維持という観点から徹底したものであり、皇帝は皇帝官房第三部の報告を隅々まで読み、細かな事項に至るまで自ら指示を与えた」。

 「帝国膨張の南下政策を進めた結果、クリミア戦争(1853年~1856年)に至った。イギリス・フランス・オスマン帝国さらにサルディニアとも戦った大規模な戦争であった。クリミア戦争の結果、ロシアは一部の領土を失い、海軍力も衰えた。

 クリミア戦争の敗北はロシアの支配階級に大きな危機感を抱かせ、帝国弱体化の責任は既存の国家体制の『立ち遅れ』に求められた。近代化(工業化)による経済発展、積極的な社会改革こそがロシアを救うと考えられた。ニコライ1世を継いだアレクサンドル2世(1855年1881年)は、農奴制度の廃止などの重要な改革を実施した。アレクサンドル2世自身は、『下から起こるよりは、上から起こった方がはるかによい』という言葉が示すとおり、国家の西欧化改革を慎重に採用していくことで、伝統的な専制支配を延命させることが出来るという考えで改革に臨んだ」(Wikipediaを再構成)。

 

 「農奴解放令によって農奴でなくなった人は、2,250万人であったが、農民はすこしも幸福にならなかった。耕作していたものは、平均して従来の土地の5分の2を(引用者注:地主たちに)切り取られてしまった。さらに哀れなのは、地主の世帯内にいた家内農奴であった。彼らは土地なしに解放されたので、地主の家を一歩出たら失業者であった。モスクワだけでもそういう人間が8万人いた。以前のように使ってくれる地主もいたが、多くはひまをだした。都市の工場が増えて労働者として雇ってくれはしたか、全部ではなかった。失業者が多いので労賃は安くなった。

 土地は神様のものだが、土地を使う権利は耕すものにあるという信念を持ち続けてきたロシアの農民は、耕す土地を取り戻そうとした。1861年から63年までの間に2,000件の農民一揆があった。中央ロシアとボルガ中流地帯、リトアニア白ロシアウクライナ、ウラルと各地におこった。

 皇帝の命令はにせものだ、ほんとうの自由をよこせと叫んで、農民は地主の土地を占拠し、地主の家に放火し、地主へのいっさいの義務を拒絶した。政府は各地に軍隊をだして鎮圧した。(中略)

 農奴解放にたいする農民の不満は、ただ力によってだけ押さえつけられていたのだった。このロシアの危機を何によって解決すべきか? 政府が解決できないとすれば、どうすればいいのか?」(松田 道雄『世界の歴史22 ロシア革命』)。