断章277

 冷戦終焉後のパクス・アメリカーナ超大国アメリカの覇権が形成した「平和」)が揺らぐことで、地域大国が地域覇権をあからさまに追求するようになった。その筆頭は、中国である。アメリカがさらに衰え、中国がさらに強盛になれば、やがては、アメリカが中国との破滅的な激突を回避するために、「中国を地域覇権国家とする東アジア秩序を容認したうえで、日本に対しては、中国中心の東アジア秩序に従属することを求めることになるというシナリオもあり得るということになる。これは、日本が事実上、米中両国の『属国』としての地位に置かれることに等しい」(中野 剛志)。

 日本のエスタブリッシュメントや知識人の多くが、全体主義中国共産党に忖度して中国の行状への批判を控えているのは、皮膚感覚でそんな未来を感じているからだろうか。

 

 日本の第二次世界大戦での敗北は、日本の百姓にとっては、「解放」であり「希望」でもあった。わたしのジイサマは、「篤農」と呼んでよい働き者だったが、戦前の体制下では、山村の貧乏な「三反百姓」のままだった。わたしのジイサマの“勤勉”は、戦後の自由と民主主義とアメリ生活様式(ハリウッド映画で見たアメリカの家電・スポーツ・音楽など)の下で花開くことができた。というのは、自由に換金作物を作り、田畑・山を買い増し、地元代議士・議員を応援して新しい道路を建設させ、農業機械を導入し、家事全般が電気・ガスで楽になり ―― 1950年代は、冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビが「三種の神器」として庶民の憧れの商品だった。高度経済成長の60年代になると、カラーテレビ、エアコン(クーラー)、自動車(カー)が「3C」として憧れの的だった ―― 、結果、大百姓になれたからである。

 

 ジイサマを継いだのは、叔父(おじ)である。もう今では、山から材木を切りだすことも、広い畑で煙草を植えてもいない。10町歩ほどで米だけを作っている。なぜなら、「アメリカの機械化農家は年々、儲からないために廃業する家族が続出する一方で、その分の田畑を借金によって買い取り、生産面積を広げながら生き残ろうとする大規模農家によって寡占されていきます。彼らはさらに借金をして巨大なトラクターの数を増やし、ひたすらトウモロコシや小麦の作付面積を増やしていきます。そして日本やアジアの零細農家の何百倍もの穀物を生産し、地元の穀物サイロに納入するのですが、手にするお金は、金利を支払い、機械の減価償却費を差し引き、機械を動かすための莫大な電気やガソリンなどのエネルギー代を差し引くとちょうどゼロになるという計算です。しかし政府からは年間の生産量に対して2,000万円位の補助金が交付される。それがアメリカの農家の実質的な収入ということです。

 世界で1番のマーケットリーダーがこれだけ高度な生産性で農作物を作る一方で、ほぼマージンゼロで農作物を市場に送り出すことで、世界中の農家は限界生産者となり果ててしまいます。日本の農家がなぜ儲からないかというと、競争相手の国の農産物の生産コストが低くなりすぎて、もはやまともに競争はできないからなのです」(鈴木 貴博)。

 しかも、農家を継ごうとする後継ぎは、もういない。都会に出て、サラリーマンになってしまうのだ。

 

 敗戦によって、自由と民主主義とアメリカナイズされた生活(たとえウサギ小屋であっても)を得たけれども、敗戦の雷鳴と衝撃で失くしたもの。それは、ナショナル・アイデンティティである。世界と地域の覇権をめぐる群雄割拠のなかで、拠るべきナショナル・アイデンティティを見いだせずに、わたしたちの日本は漂流している。